The Classic Route Hiking
高尾山と津久井湖を結ぶシルクロード
第四話
高尾山と津久井湖を結ぶシルクロード
所要時間:約3時間30分
主要山域:高尾山、津久井湖(神奈川県)
難易度:★☆☆
身近な山を楽しむためのアウトドアウェアとアクセサリーを提案する新ブランドAXESQUIN ELEMENTSは、アウトドアで発揮する確かな機能性を求めるとともに、これまでにないスタイルを発信する。同時に、かつて山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と命名して、古くも、新しい歩き旅を提案していこう。
1859年(安政6年)に横浜港が開港すると関東一円から絹糸や絹織物が集められ、欧米諸国に輸出されるようになる。絹製品はそれまで国内消費向けがおもだったが、鎖国を続けていた日本にとって外貨獲得のための代表的な輸出品となった。
その集積地のひとつ八王子は、江戸と下諏訪宿(現在の長野県下諏訪町)を結ぶ甲州道中の宿場街として賑わいをみせ、絹織りものを扱う市場が開かれるなどして「絹の街」として発展していった。特産品として絹織物は人気を博したが、欧米への輸出需要の高まりとともに近隣の山村だけでなく、山梨や埼玉、群馬などから広く集まるようになっていった。
第四話となる今回は、そんな八王子の裏山として親しまれる高尾山から歩きはじめ、養蚕が盛んに営まれていた津久井の街へ向かうことにした。
画像クリックで拡大します
京王高尾線の高尾山口駅に到着した僕たちは、土産物店が建ち並ぶ路地を抜けて高尾登山鉄道ケーブルカーに乗って標高約472mに位置する高尾山駅へと向かった。平日だからだろう、登山客や参拝者はまばらだ。夏になるとビアガーデンが開かれる展望台のある広場を抜けて、見事な杉の大樹で覆われた参道の奥へ、奥へと向かっていく。
出店が並ぶ通りを抜けて階段を上がっていくと、薬師如来を本尊とした高尾山薬王院有喜寺、通称薬王院に到着する。ここからさらに20分程度歩いていくと、標高599mの高尾山山頂である。
晴れわたった冬空のなかを歩いていると、徐々に体があたたまってきた。羽織っていた上着を脱いでバックパックに収納すると、よく整備された登山道を進んでいった。高尾山の自然は、時の権力者から保護の対象とされ、古くから一帯の樹木の伐採は禁じられてきた。そのため、都内有数の自然林が残されており、いまも実に多様な生態系が維持されている。
もともとの高尾山は、8世紀中頃に修験道の山として開山された信仰の山であった。それが次第に物見遊山に訪れる江戸っ子たちで賑わうこととなる。そして1889年(明治29年)、新宿と八王子を結ぶ甲武鉄道(現在のJR中央線)が開通したことで、登山客が急増して首都圏有数の避暑地として大変な賑わいを見せるようになった。
訪れる人たちは、当初は五穀豊穣と養蚕の成功などを祈る護摩修行者であったが、大正時代になると周辺で登山を楽しむ人、都会からの家族客、バードウォッチングや植物観察に訪れる人など、実にバラエティに富んだ人々が余暇を楽しんでいた記録が残されている。
画像クリックで拡大します
高尾山山頂から、ススキに覆われた山道を辿って少しずつ標高を落としていった。そこからしばらくすると「大垂水峠(学習の歩道)」という道標があり、標示に従ってさらに標高を落としていく。
まもなくすると国道20号線が見えはじめ、大垂水峠の歩道橋を渡ることになる。大垂水峠は、甲州街道の要所であった小仏峠にあった小仏関所が廃止され、1888年(明治21年)に国道16号線(現在の国道20号線)の峠道として整備されている。約100年前の地形図を見ると、いま歩いてきた山道もそのまま記載されている。国道が整備される以前には、相模原市側の千木良の集落と、東京の八王子をつなぐ山道として利用されていたようだ。
大垂水峠から続く稜線は南高尾山陵と呼ばれ、比較的近年になって整備された登山道である。それ以前は、大垂水峠をはじめ、中沢峠や西山峠、三沢峠などの峠道があるのみ。こうした峠道は、山を隔てた集落と集落を結び、八王子側と相模原側の交流が頻繁に交わされていたことを教えてくれる。
南高尾山陵は、美しい雑木林と笹原が広がり、心地よいアップダウンを続ける。峠から大洞山を越えて、金比羅山の山頂に到着すると日向ぼっこに最適なベンチが置かれていた。誰が作ったのだろう、ベンチの後ろには「リュック掛」と書かれた木の枝を使って作られたハンガーが設置されていた。
画像クリックで拡大します
水筒を取り出して、バックパックを「リュック掛」に吊してみた。かぶっていた帽子も一緒に掛けて、汗をかいた頭を風に当てた。きっと地元の山岳会員らが作ったものであろう。こうした遊び心にふれられるのも、身近な山の面白さのひとつである。太陽は真南にあり、あたたかな日の光を浴びて汗ばむほど気温が上がっていった。
聖観音菩薩像がある中沢山を越えて、雑木林のなかをさらに進む。眼下に津久井湖の湖面が見えてきたところで「三井水源林 名手・中野」とある道標を頼りに下山道へと向かう。
すると、前から笑顔の4人組の登山者が歩いてきた。彼らは、高尾山から、僕たちとは反対の時計回りで南高尾山稜を歩いてきたと話す。
「この少し手前に絶景が広がっていますよ! 天気もいいし、ベンチがあって2〜3分ぐらいのところだから。ちょっとだけ見ていったら?」
なるほど、確かに眺めがいい。津久井湖周辺に広がる集落を見渡しながら、湖畔にある津久井記念館で見たかつての村の情景を想像する。山間にある津久井の村々は、適度な湿気が川から運ばれ、養蚕や蚕の食料となる桑の栽培に適した土地だったという。また、「絹の街」といわれた八王子から近いため、周辺の集落では農業の合間に養蚕をしたり、燃料として必需品だった炭焼きが行われ、貴重な現金収入になった。なかでも津久井湖南岸の中野地区では、昭和60年代まで養蚕業に携わる人がいたと聞く。こうした絹糸や織物は今日通過してきた峠道を辿って、八王子の絹を扱う商人のもとへと運ばれていったのだ。
僕たちは、休憩ベンチから「名手・中野」の道標がある分岐点まで戻ると、津久井湖へと下っていった。この道は、国土地理院発行の地形図には明記されているものの、登山者が利用することが多い昭文社の「山と高原地図」には記載されていない。歩き慣れている人は承知だと思うが、里山には未記載のルートがたくさんあって道迷いの原因にもなっている。
画像クリックで拡大します
登山道は、緑色の柵がつけられた舗装路で終わりとなる。湖面に半島のように突き出した名手の集落を歩き、車一台がようやく通れるくらいの名手橋を進んで対岸へと渡る。すぐ右手にある階段の上を登っていき、ちょっとした広場のなかの小道を伝っていった。周囲には、かつて養蚕を行っていただろう民家が並び、お茶畑が広がっていた。
さらに集落を抜けていき、JRと京王線の橋本駅へと向かうバス停へと到着した。帰りのバスが来る前に、日本酒をひと瓶買っていこうと向かいにある酒蔵「清水酒造」に立ち寄ることにしよう。話しかけた女将さんとの話題は、酒蔵の歴史について。そして、いま僕たちが歩いてきた名手へと降りる山道についてであった。
「あの道は、昔からありましたよね。八王子は本当に近所で、あの山の向こうですからね。でも、私は歩いて行ったことはないんですけどね(笑)」
ここで清水酒造が酒作りを始めたのは、いまから270年以上前の1751年(宝暦元年)である。神奈川県内でもっとも古い酒蔵だという。一帯では大正時代末期からはじまった組紐作りが盛んに行われてきた。これは神奈川津久井郡にあった鳥屋村出身の佐藤時太郎が組紐を作る工場を東京で設立し、そこへ津久井の人たちが働きに出て帰村後に自分たちでも組紐作りをはじめたものである。
「お蚕さんは、昔は中野のほうにたくさんいましたね。でも、もうやっていらっしゃらないですよね。組紐を作っているところは、いまでも何軒かありますよ。ほら、その日本酒の瓶につけている飾り紐も津久井の組紐なんですよ」
僕は、そういわれて組紐のついた吟醸純米酒「津久井城」を手にした。これを買って帰ることにしよう。いや、もう一本。気になっていた「神泉巖乃泉・原酒しぼりたて」も買っていこう。途中、魚屋に寄って刺身も手に入れて、今夜は津久井の酒で気分よく酔っぱらうことにしよう。そんなことを思いつつ帰りのバスを待ちながら、このシルクロードの旅は終えたのだった。
文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎松本茜 Photographs by Akane Matsumoto
取材日/2021年1月22日
【次回告知】
第五回目の「The Classic Route Hiking」は3月16日(水)更新予定です。山梨県の道志村から都留市へ、子供たちが炭を運んだ道を辿ります。
ACCESS & OUT/出発点とした高尾山口駅までは、新宿駅から京王電鉄高尾線を利用する。帰路は、「清水酒造」の向かいにある奈良井バス停から、路線バスでJR橋本駅、または京王線橋本駅へと向かうといいだろう。
「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。