芸術家が尊んだ富士山と山歩き
第十二話
芸術家が尊んだ富士山と山歩き
所要時間:約6時間
主要山域:三つ峠山(山梨県)
難易度:★★☆
本連載では、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。第十二話では、修検道のための霊山として開かれた三ッ峠山(標高約1,785m)の山頂を踏みながら、甲州(現在の甲府)から鎌倉へと続く鎌倉往還があった御坂峠を目指した。その道中は、江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎をはじめとした芸術家たちが魅了され、作品のモチーフとした富士山を眺めながらの旅路である。
僕たち3人は、富士山麓電鉄に揺られて三つ峠駅へと到着すると、市街地を抜けて奈良時代から信仰の山とされてきた三ッ峠山の山頂を目指した。現在、多くの登山者が山頂までの出発点として利用しているのは、山の北側に位置する三ツ峠登山口であろう。徒歩1時間30分ほどで到着する、三ッ峠山までの最短コースである。
いっぽう、僕たちが向かった表登山道は、三つ峠駅から山頂まで約4時間の道のりだ。これは、開山当初から歩かれていた、もっとも古いルートである。
三ッ峠山とは、3つの山の総称であり、最高峰の開運山(標高約1,785m)をはじめ、御巣鷹山(標高約1,775m)、木無山(標高約1,732m)をまとめにして、そう呼ばれている。山麓から、山頂に立つラジオ送信所の中継局がよく見えているけれど、はたして時間どおりに到着するのだろうか? そんな疑問を抱くほど遠くに見えるし、山頂一帯の地形は切り立っていて、どこを登っていくのか不安にさえ思えてくる。
まもなく登山口に到着するというころ、途中の「三ッ峠さくら公園」脇にある大山祇神社に立ち寄って登山安全を祈願することにした。神社のまわりには、たくさんの桜の木が植えられ、開花時期には大勢の人で賑わうのであろう。
そこからは、舗装路が遊歩道となり、平行して流れる柄杓流川を掛かる木橋で対岸へと渡る。本格的な登山がはじまるのは、ここからだ。登山口には、背丈ほどある巨大な達磨石(だるまいし)が出迎えてくれる。この巨石には、大日如来を表す“アーク”の梵字が刻まれ、三つ峠中興の祖、空胎上人の後継者である三世安西和尚が建てたものだと伝えられている。
登山口からの道は、徐々に勾配を高めて、つづら折りを繰り返していく。ときおり広い尾根道になるが、そこでようやく息を整えることができる。はるか遠くに眺めていた頂上も、徐々に近づいてきて、気がつくと垂直に切り立った岩壁「屏風岩」を仰ぎ見ることになる。
三ッ峠山は、古くからロッククライミングのゲレンデとしても親しまれてきた。屏風岩の初登攀が試みられたのは、大正13年(1924年)のことであり、初期の剣岳登山で知られる沼井鉄太郎らによってなされている。さらに昭和4年(1929年)になると、富士山麓電気電車(現・富士急行)が営業を始めたことにより東京都内からの日帰り圏内となる。新聞を運ぶために早朝3時頃から電車の運転があり、昭和30年代の第一次登山ブームには夜行列車に乗った若者たちが三つ峠駅へと大挙したそうだ。
屏風岩を登り終えたクライマーとひとこと、ふたこと会話を交わすと、最後のつづら折りへと進む。三ッ峠山の山頂は、もうまもなくである。正確な記録は残されていないのだけれど、三ッ峠山から眺める富士山は浮世絵師の葛飾北斎が描いた「富嶽三十六景」のなかの“赤富士”と呼ばれる『凱風快晴(がいふうかいせい)』という作品のモチーフになったのではないかと言われている。赤富士の現象は夏から秋によく見られること、またその時期に見られる山頂付近の残雪、山頂の形状などからの推測であるが、はっきりとしたことは誰にもわからないようだ。
山頂到着後、浮世絵の富士山を想像しながら景色を眺めていた僕たちは、山の北側に位置する三ツ峠登山口へと向かうことにした。下山道は山小屋で使う必要物資を運びあげるための運搬車も利用する。そのため、ぬかるんで慎重に足を滑らせないように下る必要があった。途中、ぜひとも立ち寄りたいと思っていた「天下茶屋」へは、この北側の三ツ峠登山口から30分ほどの舗装路歩きで到着する。甲府方面と富士吉田を行き交う旅人たちの休憩所として賑わいをみせた峠の茶屋である。
天下茶屋を訪れた文人は数多い。なかでも井伏鱒二と太宰治は、長期間にわたって滞在していたことで知られている作家である。井伏は、短編集『山椒魚』(新潮文庫・刊)のなかの一遍「大空の鷹」にて、名前をクロと名付けた御坂峠に棲む一羽の鷲について記している。
いっぽう昭和13年の初秋、井伏を頼りに天下茶屋にやってきた太宰は、滞在した3ヶ月間に起こったことをもとに短編小説『富嶽百景』を記している。当初は、富士三景のひとつに数えられた御坂峠からの眺めを「好かないばかりか、軽蔑さえした。」と毛嫌いしていた。しかしながら、ここでの生活が続けるうちに茶店の娘との交流、峠の反対側に位置する甲府に住む婚約者に会いにいくうちに変化する、日本一高い山に対する心境を綴っている。
僕たちが天下茶屋に到着すると、法被姿の従業員たちが大急ぎで雨戸を閉めはじめているではないか。時刻は14時。ここへ来る2日前、17時までの営業だと確認したのだけれど、どう見ても店じまいをはじめている。不思議に思って声をかけてみる。
「あのぉ、休憩をしたいんですけど。甘酒と、ちょっとした食事ができればと思って……」
すると、戸締まりを終えた従業員が早口でわびた。
「いやぁ。今日は、14時で店仕舞いなんです」
今日の閉店時間を早めた理由を聞くと、これからスタッフ揃って新型コロナ・ウィルスに対応したワクチン接種のため接種会場へ急ぐのだという。太宰治が滞在した部屋を復元していると聞いて楽しみにしていたのだけれど、店内に入ることすらかなわなかった。新型コロナ・ウィルが猛威を振るっていた状況では、いたしかたないハプニングである。
仕方なく道路脇のベンチに腰掛けて、ガサゴソとバックパックのなかに手を入れて残しておいた食べものを取り出した。僕は、残念に思う気持ちを抑えながら、しおれた菓子パンを頬張りはじめた。甘酒と蕎麦でも食べられたらと楽しみにしていたのだけれど、水筒の水で喉を潤すほかないのである。
気を取り直して、天下茶屋からすぐの御坂隧道脇から、新御坂峠のある尾根道へと向かうことにしよう。バックパックを背負い直すと、アップダウンを繰り返す尾根道を進んでゆき、御坂山(標高約1,596m)を超える。そこからまもなくすると、旧御坂峠へと到着する。ここが、本来の御坂峠であり、ちょっとした広場になったところに平成のはじめまで営業していた「御坂茶屋」の建物跡が残されている。
三ッ峠山と同様、御坂峠もまた富士山を眺めることができる絶景地であり、北斎は富嶽三十六景の「甲州三坂水面」で河口湖に写る逆さ富士を描いた。また、歌川広重も、富士三十六景『甲斐御坂越』にて、北斎同様に御坂峠から眺めた富士山と河口湖とともに、旅人たちで賑わったかつての峠道を作品にしている。
現在、旧御坂峠の下には全長2,778mの新御坂トンネルが通っており、自動車ならばわずか数分で通り抜けることができる。そのため峠道を歩くのは、いまは登山者くらいである。ひっそりと静まりかえったいまは想像するのは難しいけれど、かつては多くの人が御坂峠を越えていき、生活のために物資を運んだり、親戚に会いに行ったりなどしていたのである。富士山を拝もうと、ここまで歩いてきた人たちもいたであろう。
旧御坂峠から先は、甲州と鎌倉をつなぐ鎌倉往還における峠越えの道だ。ところどころで石畳跡を見つけることができる。峠道を歩いてきた旅人たちを長年にわたって見守り続けた地蔵や石祠も残されており、長い歴史を感じる山旅である。
しばらく歩けば、最終目的地とした路線バスが走る国道へ到着する。すでに太陽は傾きはじめ、反対側の山の斜面を赤く染めている。今日は、ときおり木々の隙間から顔をのぞかせた富士山とともに歩いた。かつての芸術家たちが思いを馳せた富士山が、いつもそばにいてくれるような感覚を強く感じながら、この山旅を終えるのである。
文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎松本茜 Photographs by Akane Matsumoto
取材日/2022年4月12日
【次回告知】
次回、第十三話となる「The Classic Route Hiking」は3月15日(水)更新予定です。東京のあきる野市で、伝統的な手漉き和紙として作られる軍道紙の原料となる楮(こうぞ)を仕入れるために歩いた道を辿ります。
ACCESS & OUT/今回の出発地点は、富士山麓電鉄の三つ峠駅とした。登山口までは約1時間程度の舗装路と遊歩道歩きがある。下山は、旧御坂峠から甲府側に下った藤の木バス停から、路線バスにてJR中央本線の甲府駅へと向かった。
「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。
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