岡谷へと初期中山道を歩いた少女。

岡谷へと初期中山道を歩いた少女。

第四十話

岡谷へと初期中山道を歩いた少女。

 

所要時間:約9時間
主要山域:牛首峠、小野峠(長野県)
難易度:★★★

 

アクシーズクイン・エレメンツでは、生活のために山間の集落をつないだ道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。第四十話では、日本橋から京都の三条大橋を結ぶ五街道のなかで、板橋宿から内陸部を抜けて草津宿で東海道と合流しながら京の都へと向かう中山道の旧道を歩く。

 

この旧道は現在「初期中山道」と呼ばれ、中山道が定められた当初の十数年間のあいだのみ使われていた。街道としての役目を終えたあとも生活道として人々に利用され、飛騨高山から少女たちが職を求めて製糸業で栄えた岡谷へ向かう姿が見られたという。

 

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朝6時50分。JR中央本線の塩尻駅を出発した電車は、小気味のいいコトンコトンという走行音を響かせながら名古屋方面へと南下していった。深い森のなかを走ること約10分、出発地としたJR中央西線の日出塩駅に到着する。

 

駅のホームから車掌に軽く会釈をすると、ふたたび電車が走り出す。この駅で、ホームへと降りる人は僕たちのほかには誰もいなかった。コトンコトンという走行音が周囲の山並みにこだまして、車両が徐々に小さくなっていく。そのさまを見届けながら、無人駅の改札口へと向かうのであった。

 

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五街道のひとつ中山道は、日本橋を出発すると、山側へと進路を向けて近江国(現在の滋賀県)の宿場街「守山宿」へと向かった。その途中では、江戸から29番目の宿場街となる「下諏訪宿」から、30番目の宿場街の塩尻宿へと向かうため塩尻峠を越えていく。

 

今回、僕たちが歩くのは、中山道が定められた慶長6(1601)年に使われた別の進路、下諏訪宿から南下して小野峠と牛首峠というふたつの峠を越えながら木曽路の入り口である桜沢へと向かう道である。

 

こうした進路となった理由は、徳川家康を支えた総代官、大久保長安が木曽谷で育てられた木材を江戸の町づくりに用いるための運搬路として整備しようと考えていたためであるという。しかし、長安が没した慶長18(1613)年になると、塩尻峠を超えて塩尻宿へといたる現在の道筋に修正される。以降、旧道は「旧中山道」とか、「初期中山道」と呼ばれるようになり、諏訪と木曽、伊奈方面に往来するための生活道として使われるようになった。

 

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無人駅の改札口を出発した僕たちは、中山道の旧道となる舗装路を足早に歩いた。中央本線の線路に沿って進んでいくと、線路の反対側へと続くトンネルを見つける。その向こう側には立派な鳥居があり、旅の安全を願うために神社へと寄り道をすることとした。

 

旧道から、国道へ。参拝を終えてから15分ほど歩いていくと、初期中山道への入り口を示す案内板がある。国道19号線沿いにあるリサイクルショップの脇道へ入っていくと、大型トラックの走騒音が徐々に遠くなっていって、気がつくと森のなかの静寂に包まれていくのである。

 

道の脇には桜川が流れ、岩の隙間に隠れるために素早く泳ぐ魚影を川底に見つける。ヤマメだろうか。それとも、アマゴだろうか。淵から淵へ、僕たちの姿に驚いて逃げていく魚影を追っていると、まもなく牛首峠に到着する。

 

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牛首峠に到着しようかというところであった。すうっと尾根に登っていく小さな谷を道の左手に見つけた。きっと、この沢のようになった谷のなかに昔の峠道があり、そのまま牛首峠へと到達したのであろう。

 

「前山の一里塚」と「塚原の一里塚」というふたつの一里塚跡を越えて、上村と呼ばれる小さな集落のなかを歩いているときだった。

 

「どこから来たの?」

 

農作業をしていた老夫婦に声をかけられ、今朝に日出塩駅から出発したこと。いまから小野にある駅へと向かって、そこから小野峠を超えて岡谷まで歩いていくことを伝えた。

 

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「ここの集落はね、最盛期で35軒あったんですよ。いまは5軒だけ。ここらでも昔はね、繭をね、育てていたんですよ。畑のところに蚕室ってのがあってね。お蚕さんの部屋ね。そこで飼っていたの。この家はもともと茅葺だったんだけど、あとからトタンで覆ったんですよ。それに、炭焼きね。あそこに倉庫があるでしょ。あそこから岡谷で出荷していたらしいのよ」

 

老夫婦の昔話に、花が咲く。お蚕さんから、炭焼きへ。昭和時代のはじめくらいまでは、岡谷にあった製糸工場へと出稼ぎにでかける14〜15歳の少女たちの姿が頻繁に見られたと話す。岡谷の街は糸都として知られているけれど、そこで働く少女たちが飛騨高山などから野麦峠を越えて岡谷へと歩いていたのだという。

 

「おばあさんがね、ここの道を『よく女工さんが通ったのよ』って教えてくれたの。飛騨の高山から、若い娘さんたちが岡谷の製糸工場で働くために、この道を歩いてたんだって」

 

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老夫婦と別れた僕たちは、岡谷へと向かう道中で、家族と別れて暮らす寂しさ、友人たちと一緒にはじめる新しい生活への期待感に包まれた少女たちの心中を想像しながら、JR中央本線の駅がある小野へと向かった。

 

中山道の塩尻宿から、飯田方面へと向かった三州街道の宿場街として栄えた小野の街の中心部には、江戸末期の建造物「小野宿問屋跡」が文化財として保存されている。その斜向かいには、明治維新前夜となる元治元(1864)年創業で、日本酒「夜明け前」の酒蔵として知られる小野酒造店がある。

 

その暖簾をくぐった僕は、冷蔵庫から冷えた1本の純米酒を手にとって、大切にバックパックのなかに仕舞うと、ふたつめの峠となる小野峠へと向かった。

 

小野からの舗装路歩きは少々退屈であるけれど、顔を洗うと色白の肌になると信じられてきた「色白水」あたりから興味深い景色が続く。岡谷へと向かった少女たちも面白半分に顔を洗ったであろう色白水の向こうで、深い森の奥へと続く道を見つけた。その道に誘い込まれるように奥へと進んでいくと、目の前にハッとするような景色が広がった。

 

小道の両側に9mほどに土が盛られた「湯沢の一里塚」である。その頂点には、松の木が一本植えられており、江戸時代に作られた本来の姿をいまも残している。

 

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湯沢の一里塚を越えて、小野がある辰野町と岡谷市の境界線となる尾根道を歩いていくと、諏訪湖や岡谷の市街地を見わたす展望台に到着する。そこからは、雑木林のなかに作られた小道を辿って、深く切れ込んだ谷間のなかに降りていく。

 

山道につけられた下り階段を歩いていくと、十文字に交差するように別の山道が合流した。その交差点で立ちどまり、いま下ってきた階段がある斜面に目をやると、草むらのなかにひっそりと「右・をの」、「左・みさわ」と刻まれた道標が置かれていた。ここが小野峠である。

 

山道の反対側には登り階段があり、そこを上がっていくと諏訪群と伊那群、筑摩群の境界に、それぞれの石祠を置いた「三郡の辻」がある。ここで小休止をとったあとは、道標のところで交差してきた道を伝って岡谷の市街地へとまっすぐと向かった。

 

旅の終着点は、1928(昭和3)年の創業以来100年近くが経過した宮坂製糸所である。岡谷蚕糸博物館に併設している施設では現在も製糸を続けられており、女工たちが手際よく糸を紡ぐための作業を工場内で続けていることに驚かされる。

 

初期中山道を歩いて岡谷へとやってきた少女たちも、きっとここで働く人たちと同様に、活き活きと仕事に精を出したのであろう。そのような姿を想像しながら、僕たちは旅を終えるのであった。

 

 

文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎宇佐美博之 Photographs by Hiroyuki Usami
取材協力◎HIKE(https://hikeyatsugatake.com)
取材日/2026年6月24日

 

次回の「The Classic Route Hiking」は、2026年9月16日(水)更新予定です。第四十一回では、初期中山道を定めた大久保長安が開発を担うとともに、江戸幕府に莫大な利益を生んだ佐渡金山へと向かいます。真野湾に面した沢根の集落から鶴子銀山を越えて、金鉱を見つけることになった山道を辿ります。

 

 

ACCESS & OUT/出発地点としたのは、塩尻駅からJR中央西線に乗って10分ほどで到着する日出塩駅である。終点は、JR中央本線の岡谷駅。全行程を歩くには8〜9時間を要するため、日出塩駅発で途中の小野駅で終えたり、小野駅から歩きはじめて岡谷駅で終えるという選択もある。

 

「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。

 

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