佐渡金山発見につながった鶴子道
第四十一話
佐渡金山発見につながった鶴子道
所要時間:約5時間
主要山域:笠取峠(新潟県)
難易度:★★☆
アクシーズクイン・エレメンツでは、生活のために山間の集落をつないだ山道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。
第四十一話では、新潟県佐渡島へと向かい、江戸幕府に莫大な富をもたらした「相川金銀山」の発見につながった山道を歩く。この山道は「鶴子道」と呼ばれ、相川金銀山が開山されるまでわずか数件の民家だけが建っていた集落へと物資を運んだ生活道であった。
画像クリックで拡大します
大佐渡と呼ばれる佐渡島の北半分、その北西部に位置する相川金銀山は、江戸幕府が開かれた前々年前となる1601(慶長6)年に開山している。以後、1989(昭和64・平成元)年の閉山までの388年間のあいだに、金78トン、銀2,330トンを産出。開山当初は、江戸幕府の財政を支えるなど莫大な富をもたらした。
2024年には、ユネスコの定める世界文化遺産「佐渡島の金山」として、相川金銀山よりも古い室町時代末期に発見された鶴子(つるし)銀山のほか、佐渡島最古の砂金山といわれる西三川砂金山をあわせて登録が行われた。
なお、西三川砂金山は、12世紀末に成立したとされている説話文学『今昔物語集』に砂金採取の説話が収められていると推定されているものの、開山についての確かな年代は特定されていない。
画像クリックで拡大します
日本最大級の金と銀の埋蔵量を誇る相川金銀山が発見されたきっかけとなった山道がある。そんな話を聞いて、僕たちは佐渡島へと向かうことにした。島の北西部に位置する相川地区にある「きらりうむ佐渡」で学芸員に山道について問うと「鶴子銀山で働いていた技術者たちが、山のなかで金鉱を見つけたのが相川金銀山のはじまりなんです」と話しはじめた。
「相川金銀山の発見は、1594年です。鶴子銀山が見つかったのは、それより半世紀ほど前となる1542年です。戦国時代の中頃ぐらいですね。当時は、いまある県道も、中山トンネルもなかったので、鶴子銀山のある沢根から相川の集落までは「鶴子道」を使って歩いていたんです。金山が発展する以前の相川は、民家が5〜6軒ほどの小さな集落だったようです。技術者たちは、金鉱がある赤土に育つような植物などで見分けていたんじゃないかと考えています」
沢根よりも相川が栄えたのは「銀よりも、より高価な金をみんなが求めたからなんでしょう」と、想像を交えながら話す彼は、「銀がいっぱい取れていた江戸時代は、鶴子銀山がある沢根も栄えていたようです」と教えてくれるのであった。
画像クリックで拡大します
相川金銀山の発見につながった鶴子道を歩こう。そう思い立った僕たちは、真野湾に面した沢根へと向かった。佐渡島の玄関口となる両津港から路線バスに揺られること約40分、「沢根学校前」というバス停へと降り立つ。
バス停の向かい側にある「池田菓子舗」の引き戸を開けると、ほのかな甘さを感じる餅の香りに包まれた。店内を見回すと、みたらし団子や大福、くるみ餅などに加えて、佐渡島の名物になっている「沢根だんご」が置かれていた。
店主によると、沢根だんごは相川金銀山へと向かう鉱山師たちに、峠道を越えるための力餅として親しまれたという。彼に、これから鶴子道を歩いて相川金銀山まで歩くことを伝えると、「それは、それは。でも、たいへんな山道ですから気をつけてくださいね」と笑顔で送り出してくれるのであった。
画像クリックで拡大します
相川往還と呼ばれる表通りを400〜500m歩いていくと、店主に教わったとおり郵便局があった。曲がり角には「鶴子道・鶴子銀山へ」と掲げられた道標があり、これにしたがって少しずつ標高を上げながら舗装路を進んでいく。
民家がまばらになっていき、周囲に竹林が広がりはじめる。丁字路となり、その先に一本の山道が続いていた。そこでいま来た道を振り返ると、穏やかに凪いだ真野湾が広がっていた。
この竹林のなかに続く山道を使って、かつては野菜や鮮魚などの食料品などのほか、日用品なども運んでいたという。古い絵図のなかには、牛や馬を使って金鉱石を運んでいるさまが描かれたものもある。相川金銀山の発展に伴い、続々と押し寄せた鉱山師たちが住居を構えるための建築資材や生活用品も運んでいたであろう。
金銀山の発見以前、わずか5~6家族が住んでいたにすぎない相川は、最盛期には5万人もの鉱山関係者が集った。現在の佐渡島の人口は4万5000人であるから、いまの島民以上の人々がわずか2km四方に集っていたことになる。
画像クリックで拡大します
沢根方面からの竹林を抜けると、背丈ほどの草に覆われた山道を進むことになるけれど、すぐに明瞭な山道となる。そこからは、緩やかな起伏のある山道が続いている。よく手入れがされた杉林のなかを右へ、左へと方向を変えながら歩いていくと、林道と合流する笠取峠へと到着する。
峠の名称は、風雨が強い日に頭笠が吹き飛ばされるほどであったことから名づけられた。ここまでの道中には、古い道標や石祠をはじめ、鶴子銀山の代官所跡、露天掘り跡が残る「百枚聞歩跡」など、銀を求めて集まった人々たちの痕跡が色濃く残されていた。
僕たちは、沢根だんごを頬張りながらの小休止を終えると、ふたたび深い森のなかへと続く山道を辿ることにした。複雑な地形ゆえ、方向感覚を失ってしまいそうである。本当に相川金銀山に向かっているのだろうか? 不安な気持ちになりながら、一歩一歩踏みしめながら山道を進むのであった。
画像クリックで拡大します
山道をしばらく歩いていくと、相川金銀山の鎮守とされた「大山祇神社跡」へと到着する。神社跡から苔に覆われた石階段を上がっていくと、敷地を平らにならした石積みが残る上相川の鉱山集落跡となる。海岸線から見て、山の奥に集落が作られたのは、鶴子道を越えてやってきた鉱山師にとって、そのほうが利便性が高かったからであろう。沢根から歩いてくると、まずはじめに自分たちの住まいがある鉱山集落へと到着できたのである。
集落跡からは、相川金銀山の象徴となっている国史跡「道遊の割戸」を眺めることができる。
「道遊の割戸は、山頂付近で金鉱脈があることがわかったんです」
山頂付近から真下に向かって掘り進められ、切り裂かれたような道遊の割戸を遠くに眺めながら、きらりうむ佐渡の学芸員の言葉を思い出す。
「だから、どんどん山頂から掘り進めていったんです。金鉱の発見当初は高度な技術もなかった。だから、見えるところから掘っていったんですね。それから少しずつ技術が発展していって。時代とともに露天掘りから洞窟みたいに奥へ、奥へと掘り進んでいく工法が生まれていったんです」
画像クリックで拡大します
1628(寛永5)年、中山峠を経由する相川往還が整備されると、鶴子道は主要道としての役割を終えた。しかし、その後も鉱山師にとっては、沢根と相川を結ぶための作業道としてあり続けた。
現在は、国道を使って中山トンネルを抜ければあっという間に相川へと訪れられ、山中に広がる金銀山跡での観光も簡単にできる。しかし僕たちは、かつての鉱山従事者によって踏み固められた山道を辿ることで、金鉱を目指した人々の気持ちに少しでも近づけたのではなかろうか。相川鉱山集落跡から金銀山跡に辿り着いたときの安堵感は格別である。
高低差もそれほどなく、とても歩きやすい道である。ゆっくりと僕たちが歩いたとしても5~6時間で相川へと到着することができる。山仕事に慣れた鉱山師たちであれば、沢根から相川へと大きな苦労もなく歩いたことであろう。
文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎宇佐美博之 Photographs by Hiroyuki Usami
取材協力◎WEST新潟店(https://info.west-shop.co.jp/store/niigata)
取材日/2026年7月7日
次回の「The Classic Route Hiking」は、2026年10月21日(水)更新予定です。第四十二回では、滋賀県東近江市の山中に残された茨川村跡へと向かいます。近江と伊勢を結ぶ峠道の中間地点となった山村は、室町時代から200年以上にわたって掘削が続けられた銀鉱山の集落跡が残されています。
ACCESS & OUT/出発地点とした「沢根小学校」までは、佐渡島の玄関口となる両津港から「新潟交通佐渡」が運航するバスで40分程で到着する。ゴール地点とした相川金銀山から両津港までも、新潟交通佐渡の路線バスが運行しており便数も豊富だ。
「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。
Gallery







