鈴鹿山中に残された茨川集落跡

鈴鹿山中に残された茨川集落跡

第四十二話

鈴鹿山中に残された茨川集落跡

 

所要時間:約5時間
主要山域:御池岳(滋賀県・三重県)
難易度:★★☆

 

アクシーズクイン・エレメンツでは、生活のために山間の集落をつないだ山道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。

 

第四十二話では、鈴鹿山中を流れる茶屋川沿いにひっそりと広がる滋賀県東近江市の山間集落跡「茨川村」を訪れる。10数軒の民家が建っていた痕跡が残る集落跡では、昭和40年代まで林業や炭焼き業などで生計を立てていた人々が豊かな自然の恵みを享受しながら、山間地での静かな暮らしを続けていた。

 

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鈴鹿山脈の最高峰であり、その北部に位置する御池岳(標高約1,247m)を源流とする御池川。その最上流部にある君ヶ畑集落は、漆器などの原料となる木地(木製の元型)を作る職人である木地師発祥の地として知られている。

 

この小さな集落にある神社「大皇器地祖神社」で旅の安全を祈願すると、僕たちは民家のあいだを通り抜けて登山口へと向かった。集落からの舗装路は、次第に車がようやくすれ違えるほどの太さになり、登山口にある駐車場を左手に見ながら分岐を右の方角へと進んでいった。

 

そこから砂利敷きの林道となる駐車場には釣り竿を抱え、胸のあたりまでを覆うウェーダー姿の釣り人たちが談笑していた。禁漁期前の最後の一日に心を躍らせているようだった。

 

渓流沿いの林道を進んでいくと、昨日まで降り続いた雨の影響であろう。溢れた小川の水が林道のうえをオーバーフローして流れており、登山靴を濡らさないように脱いで渡ることにした。

 

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雑木林のなかに続く林道は、登山者のみが歩くことができる山道となって最初の峠であるノタノ坂へと向かった。渓流を右手に見ながら進んでいくと、炭焼き窯跡をいくつも見つけることができる。

 

茨川村の住人たちは、炭焼きなどをしながら生計を立てていた。山中で作った木炭は、ひとつ約15kgの炭俵に詰めて男性で4俵(約60kg)、女性は3俵(約45kg)を背負って近隣の集落や街まで売りに出かけたという。集落では、最後の住民が移転するまで、電気も、水道も、電話も整備されることはなかった。そのため、夜になると灯油ランプなどで明かりを灯して、冬のあいだの暖房や炊事は木炭に頼った。

 

山道沿いに残された炭焼き窯跡のなかには、茨川に住んでいた人々が使っていたものもあるのかもしれない。ここで数日間を過ごしながら、炭焼きに精を出していたのであろう。君ヶ畑をはじめとした近隣の村々でも、昭和中期までは同様の状況であったのではなかろうか。

 

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登山口を出発してから30分ほどが経過すると、雑木林がまばらとなって尾根のあたりがパアッと明るくなってきた。ノタノ坂に到着である。天候の回復は予報よりも遅れているけれど、空を覆っていた雲がとれはじめている。太陽光がときおりキラキラと、木の葉の隙間から差し込みはじめていた。

 

御池岳へと続く縦走路となっているノタノ坂からは、少し尾根を登ったところにある「茨川」と明記された道標にしたがって山肌をトラバースしていくことになる。そこからしばらくは紅葉をはじめた木の葉を見つけながら、峠の向こう側から吹いてくる微風を受けて標高を徐々に落としていくこととなる。

 

しかし、次第に踏み跡が少なくなってきて、土砂や木の葉に埋まってしまったり、倒木で塞がれている登山道を慎重に辿っていく。そうしたところでは、山の斜面に片手を置いてバランスを維持したり、体をよじらせながら倒木の隙間をすり抜けていくのである。

 

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まもなく集落跡に到着するであろう頃、人の手できれいに積まれた石積みが現れた。大きくて、円筒形の形状を残したままの炭焼き窯跡であった。民家跡の基礎であろうか。それとも山道を維持するための土留めであろうか。その先には十数mにわたる石積みが続いていた。

 

十数mにわたる石積みのうえを歩いて山道を下りきると、道が突然になくなった。土手の直下では、集落のなかを勢いよく流れる茶屋川がゴウゴウと大きな音を立てて迫っていた。木の根につかまりながら、川岸へと1mほどの段差を慎重に降りていく。

 

1歩、2歩、3歩と、水のうえに顔を出した小石の連なりに足を乗せながら、乾いた五郎太石が広がる河原に降りていくと、登山靴を脱いで川を渡ることとする。

 

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渡渉を終えると河原に腰を降ろして、口を大きくあけて持ってきたおにぎりを頬張った。ここには川を渡るための橋があったそうなのだけれど、いつの間にか流されてしまったようである。頭のなかを空っぽにしながら茶屋川の下流を眺めていると、河原に朝日が差し込んできた。雑木林の隙間から朝日が注ぎ、合流する伊勢谷側の渓流の小波がキラキラと眩しく輝いた。

 

「なんて、美しい場所なんだろう」

 

茶屋川の河原に腰を降ろしながら景色を眺めていると、「ここはまるで桃源郷のようだ」などと考えてしまう。山間に拓いた土地に10数軒の茅葺き屋根の民家が並び、炭焼きや林業に従事しながら慎ましく生活していた人々のことを想像するのである。

 

茨川村に人が住みはじめたのは、少なくとも450年ほど昔の1500年代中期頃と考えられている。当時は銀の採掘が行われていた記録もあり、三重県側と滋賀県側へと峠越えをするための通過点として旅人のための茶屋としての役割も担っていたようである。

 

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茨川村では、多くの家で養蚕が行われ、貴重な現金となっていたと聞く。牛や豚などの家畜を飼育することは難しかったであろうし、周囲を見渡しても立派な畑を作るような平地がある場所は見当たらない。

 

村での生活はけっして楽なものではなかったであろう。茶屋川の増水に苦しめられたり、峠道は土砂崩れが起きたり。冬になれば厳しい寒さ、大雪に見舞われ、村から出ることも、帰ってくることもできなかったことが幾度となくあったのではなかろうか。

 

また、大正3年に置かれた政所小学校の分校があったものの、中学生になると子供たちは親元を離れなくてはならなかった。近隣の君ヶ畑などに住む親戚の世話となり、村外の中学校に通っていたのである。なお、この分校は、現在は八幡工業高校の山岳部小屋となっている建物である。

 

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この美しい山村跡から、離れがたい気持ちを抑えて再出発とする。県境を越えて三重県側へと向かおうとすると、茶屋川と伊勢谷の合流地点で、ひとりの釣り師が川のなかに立っていた。彼に釣果を尋ねると「まったく釣れません」と苦笑した。

 

向こうの川岸には白いジムニーが停められており、林道が集落まで続いていることを知る。1954(昭和29)年に開通したという林道は相当な悪路ではあるけれど、小型の四輪駆動車ならば自動車でここまで来るという。

 

伊勢谷からの峠道は、最初は広くて快適な山道であった。しかし、次第に不明瞭となり、渓流沿いを右岸に渡ったり、左岸に渡ったりを繰り返し、高巻きをしながら治田峠へと続いた。

 

滋賀県と三重県との県境となる治田峠に到着すると、そこで大休止とした。草地に横たわる倒木のうえに座ると、僕は眼下に広がる市街地や伊勢湾を眺めながら茨川の人々のことを想像した。茶屋川の河原で見たような景色を眺めながら日々を過ごしてきた住民にとって、茨川村は離れがたい土地であったであろう。そんなことを考えながら腰を上げると、峠から県境を越えて三重県側にある街へと向かうのであった。

 

 

文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎宇佐美博之 Photographs by Hiroyuki Usami
取材協力◎モデラート(三重県四日市市) https://moderateweb.com
取材日/2026年9月29日

 

次回の「The Classic Route Hiking」は、2026年12月9日(水)更新予定です。第四十三回では、三重県松阪市へと向かい、「松阪牛」が歩いた道を辿ります。もともとは農業用の牛として兵庫県から連れられて、のちに食用として世界に名を馳せることとなったブランド牛の歴史に迫ります。

 

 

ACCESS & OUT/出発地点としたバス停「君ヶ畑」までは、八日市駅などから近江バスが運行する。下山口とした三重県側には、いなべ市福祉バス・治田線が運行しており、「新町」バス停から三岐鉄道三岐線「伊勢治田駅」などへ向かうことができる。

 

「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。

 

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