母親を背負って越えた正丸峠

母親を背負って越えた正丸峠

第十五話

母親を背負って越えた正丸峠

所要時間:約7時間00分

主要山域:伊豆ヶ岳、子ノ権現(埼玉県)

難易度:★★☆

本連載では、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。第十五話では、秩父地方から江戸へと向かう道として古くから利用されてきた旧正丸峠を目指す。さらにそこから、峠道に残る逸話に誘われて、足腰の守り神が奉られる子ノ権現へと向かうことにした。

 

***1***

 

正丸峠は、秩父地方に住む人々にとって最短距離で東京都心部へと向かう道である。狩場坂峠を源流として、坂戸市内で荒川の支流となる越辺川に合流する高麗川。その川沿いに通された国道299号線の歩道を歩いていると、写真家の矢島慎一が、峠の地下を貫通する正丸トンネルをよく利用していることを話した。

 

「ぐるっと関越高速道を使って遠回りをするよりも、秩父までは下道を使ったほうが早いんです。圏央道が開通してからは、青梅インターで降りて国道299号線で正丸トンネルを使うのが一番楽だと思います。何度かは旧道になった県道を使って、正丸峠を越えたこともありますよ」

 

秩父で生まれ育った矢島は、現在の住まいがある東京の多摩地区から実家に帰省するときに、この道を利用するのだと話す。今の舗装路になった正丸峠を越えるには車でも30分ほど必要だが、昭和57(1982)年に全長1918mの正丸トンネルが開通すると、わずか3分ほどで飯能側から秩父方面へ抜けられるようになったのである。

 

***2***

 

僕たちは、集合場所とした西武秩父線の正丸駅から歩きはじめると、大型トラックが勢いよく走り抜ける国道299号線沿いに旧正丸峠を目指した。手すりの向こうには、西武秩父線の線路が見えている。そのレールは、峠の地下に作られた鉄道用トンネルのなかへ進んでいく。

 

駅を出発してから5分ほどすると、「旧正丸峠・狩場坂峠」と表記された道標を見つけることができる。僕たちは、この道標に従って脇道へと進んだ。ひっそりとした集落へと入っていくと「八阪神社」があり、ここで安全登山を願う。

 

かつての峠道を正丸峠を越えた旅人たちも、ここで一日の安全を願ったであろう。道路脇には、「左、ちちぶ」、「右、大野」と刻まれた道標があり、旅人で賑わった江戸時代の風景を思い描くのである。

 

***3***

 

集落最後の民家を通り過ぎると、僕たちは深い森のなかへと誘い込まれるように暗闇の向こうへと歩を進めた。ここから旧正丸峠へは、旅人たちによって踏み固められた山道が続き、心地よく、自然に標高を上げていく。途中には、渓流沿いに造られた石積みを見ることができるのであった。

 

霧が立ちこめる杉林に陽光が差し込み、目前の景色が明るくなりはじめると旧正丸峠に到着する。峠の反対側には秩父方面へ向かう登山道が残されている。峠を下りきった芦ヶ久保村には、僕たちが坂元集落で見たような石碑があり、そこには「左子ノ権現、江戸、右名栗、八王子」と刻まれている追分の道標がある。

 

峠の歴史は古く、古代より利用されていたと考えられている。江戸時代には、秩父と江戸を最短距離で結ぶ重要な峠道となり、秩父の絹を運んだ馬が連ねた。この道は難路としても知られ、度々崩落しては通行が困難になったという。

 

なお、峠の名は北側にある標高960mの丸山を“大丸”といったことに対して、峠の西の766mのピークを“小丸”と呼んだことに由来する、というのが有力である。しかしもうひとつ、一帯で有名な逸話がある。その昔、足を弱めた母を背負い、子ノ権現まで峠を越えて治癒を祈願した正丸少年にちなんで名づけられたというものである。

 

***4***

 

激しいアップダウンが続いた尾根道は、小高山に到着するころには幾分か穏やかになっていた。山頂付近の登山道脇には、朽ちたトタン屋根が重ねられており、ここに以前、「小高茶屋」という茶屋があったことを教えてくれる。

 

そこには、数十年前に飲まれたと思わしき炭酸飲料の空き瓶、空き缶、湯飲みなどが、ところどころに散在している。鮮やかなオレンジ色と水色で縁取られ、「ファンタオレンジ」とカタカナ表記でプリントされた空き缶は、たんなる廃棄物でなく昭和時代を伝える貴重な産業遺産のようにも思えてくる。

 

そこからは、標高約850mの伊豆ヶ岳を越えて、高畑山、中ノ沢ノ頭、愛宕山と標高600m前後の稜線歩きを楽しんだ。景色は終始、霧に包まれ、杉林や雑木林は潤い、龍神を祀る祠があったという天目指峠をはじめ、歴史ある峠を超えていく。

 

足腰の守り神が奉られる子ノ権現に到着したのは、午後2時頃である。鉄でできていて、重さ2トン。人の身丈ほどの大きさの草履が目を引く境内から、階段を上がっていくと都心まで見渡すことができる展望台があった。

 

***5***

 

延喜11(911)年、子ノ聖が十一面観音を祀り、天龍寺を創建したことにはじまる子ノ権現には、江戸時代になると講中参拝者によって多いに賑わった。さらに、昭和50年ごろに道路ができると、関東一円から大型バスが何台も連なり、ときに200人を越える講中参拝者が押し寄せたという。

 

参道にある茶屋「子の山売店」の椅子に腰掛けると、僕は味噌田楽をふたつ注文した。店番の女性が入れてくれた茶が、終日歩いてきた体を温めてくれる。昭和の初めぐらいに曾祖母がはじめた茶屋を継いで4代目だという女性は、あたたかな味噌田楽を皿にのせて手渡してくれた。

 

「私が子供の頃は、ずっとここまで歩いて登ってきていたんです。私の曾ばあちゃんは、ここに泊まり込んでやってたみたいでね。そのあと祖母が継いで、次に店を切り盛りしていた母も亡くなってしまったので、いまは私が継いでいるんです。はじめは、お茶を出しはじめて、次第にうどんも作るようになったそうですね。もともと、うどんは家で作って食べるものだったんです。このあたりでは、米が作れなかったからだと思うんですよね。麦とか、そういうのしか作れなかったんでしょうねぇ」

 

***6***

 

あたたかな茶と味噌田楽とともに、昔話を楽しんだ僕たちは、西武秩父線の吾野駅へと向かった。舗装路の脇から続く山道は、かつての子ノ権現の参道である。茶屋の横にある埼玉県指定天然記念物の二本杉の根元にあった「一丁目石」から、標高を下げていくと次に「四丁目石」を見つけることができる。

 

さらに30分ほど参道を下っていくと「子大権現十二丁、安永八年、青葉戸村」と刻まれた「十二丁目石」をみつけ、降魔橋を渡ると舗装路となる。そこからまもなくすると「浅見茶屋」に到着する。ここで地元名物の、武蔵野うどんをいただいてから吾野駅へと向かうのがよい。

 

この茶屋は、昭和7年に創業され、おばあさんひとりで店番をしていた。注文を受けてからうどんを作る。そんなのんびりとした茶屋であったが、現在は週末となれば1時間待ちは当たり前の人気店になっている。

 

うどんを食べて、心も、腹も満たされた僕たちは、さらに「十五丁目石」、「十八丁目石」、「二十四丁目石」、「三十丁目石」と続き、最後に、「三十二丁目石」を見る。この「三十二丁目石」が参道の起点である。そこからは、高麗川沿いに作られた散策路を辿っていけば吾野駅である。

 

文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi

撮影◎矢島慎一 Photographs by Shin-Ichi Yajima

取材日/2022年9月21日

 

(次回告知)

次回、第十六話となる「The Classic Route Hiking」は7月26日(水)更新予定です。長野県川上村から秩父方面へと越えていく十文字峠を歩きます。一里観音から五里観音まで、かつて交易の道として利用していた名残を探しながら、苔むした山道を越えていきます。

(アクセス方法ほか)

ACCESS & OUT/出発地点は、西武秩父線の正丸駅。ここから約7時間かけて、吾野駅を終着点として歩いた。子ノ権現からの下山は車道ではなく、古くから講中参拝者が利用した芳延参道から吾野駅へと向かった。

 

「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。