数馬のおじいが、テレビを担いでやってきた
第二十一話
数馬のおじいが、
テレビを担いでやってきた
所要時間:約8時間30分
主要山域:三頭山(東京都)
難易度:★★★
アクシーズクイン・エレメンツでは、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。今回は、島嶼部を除いた東京都唯一の村である檜原村へと向かい、山の反対側に位置する集落との交流を支えた峠道を歩く。倉掛地区に住む長田かよ子さんは、山の向こうの数馬地区に住む親戚家族との交流を懐かしみながら思い出話をしてくれた。
武蔵五日市駅前を出発した路線バスに揺られて、約50分。僕たちは、檜原村のなかでも最奥部となる「藤倉」というバス停に到着した。このバス停の名称は、ふたつの集落、藤原地区と倉掛地区から名づけられている。どこか風情のある停留所で下車すると、靴紐を締め直してから深い谷の隙間に作られた舗装路を歩きはじめた。
バスがいま来た道を少し戻り、交差点を越えると北秋川に掛かる上除毛橋がある。目的とする登山口は、その橋を渡ってすぐ右手だ。登り口からは、上を見上げるほど急な斜度の階段が続いている。
「わたしは生まれも、育ちもここです。藤倉ですね。そこの廊下へ出れば、昔は東京の街が丸見えで、新宿のビルとか、東京タワーとかが見えたんです。ここでの生活ですか? そりゃぁ、子供のころほうが良かったですよね」
そう話すのは、ここに到着する前に出会った長田かよ子さんである。バス停からの坂道を登っていった倉掛地区に住む彼女は、高台になった自宅の庭から見た景色を思い出していた。いまは木々が成長してしまい、軒先からの展望は塞がれてしまった。だけれども、かつては抜群の景色を眺めることができたのだと気さくに笑った。
かよ子さんは、子供の頃の生活について「働かざる者はなんとやらでね」と微笑むと、親の手伝いで紙袋いっぱいの炭を背負って運んだ思い出を話してくれた。
「父親は遠くの山でね、炭焼きをしていたんです。小学校のときも日曜といえば、朝に、ご飯を食べて、山へ出掛けて、父親が焼いた炭を背負いにいく。背負子でね。紙袋に詰めた5キロの重さの炭を担いで、山を越えていくんです。お休みは、もちろんないですよ。当時は、自給自足の生活でしたから、畑仕事もしました。ここではお米はとれないですから、おかごの粒っていうの、この下へ植えてね。正月には、それで餅をついたんです。あとは、お茶っ葉をとって。この裏にあった、小屋のなかで蒸かして撚ってね。お茶を作っていたんですよ」
薪とりも、子供たちの重要な仕事だった。風呂を沸かしたり、調理のための火を熾したりするなど当時の生活においての必需品であったから、みなで枯れた木を取りに近くの山に向かう日常であった。
上除毛橋からのコンクリート製の階段を登り終えるも、急登に喘ぐ山道は延々と続いた。僕は息を切らしながら、かよこ子さんが「炭窯からの帰り道にはキノコを採ったり、野ブドウを採りながら歩いた」と言っていた昔話しを思い出していた。
彼女は、遠くの景色を眺めながら「甘い物が食べたかったんですよ」と当時を懐かしみ、「いまは、みんな杉の植林になっちゃったから野ブドウもなくなったけど、昔は山にいっぱいあったんですよ」と言って、目を遠くの方角へと向けた。
かよこ子さんの父親は、山の反対側に位置する数馬地区の出身である。倉掛地区へは、娘婿として迎えられた。そのため、冠婚葬祭などの行事があるときは母親に連れられて峠道を越えて山の反対側まで歩いていったというのだ。
「父親の実家は大臣さまだったんですよ。お金持ちね。でも、こんなに貧乏なところへ婿に来ちゃったんですよ。結婚式とか、葬式があるときは朝に出発して、山を越えていって向こうに泊まるの。そうするとね、夜になるとサンマが一匹出るんですよ。ご飯もね、白くてね。おばさんが、こんもりとよそってくれるんです。それとお味噌汁。うちは貧乏で海の魚なんて食れなかったけれど、向こうはお金持ちだったから。だからね。ほんとうは私も数馬へ、お嫁に行きたかったですよ」
登山口からの歩きはじめから一時間ほどが経過すると、藤倉からの急登はようやく斜度がゆるまりはじめた。後ろを振り返ると、少し前に出発した集落の家の屋根が眼下に広がっていた。
日差しを遮っていた壁のような山の斜面がなくなると、景色が明るくなってくる。そこからは、木々の隙間から右手に藤倉、左手に数馬の集落を眺めながら、浅間尾根伝いに北へ、北へと歩いていくことになる。
さらに進むと舗装された林道を越え、左手に「数馬バス終点へ」とある道標を見る。ここは数馬峠、もしくは藤原峠と呼ばれており、古くからふたつの集落を結ぶ要所として利用されてきた。藤原集落や倉掛集落へと下っていく峠道も、もともとはこのあたりにあったのだ。途中には、かつてこの道を旅した人々を見守ってきただろう地蔵が点在していた。
かよこ子さんたちが数馬へ向かうときは、僕たちがいま歩いている峠道を越えて歩いた。現在の登山道とは少し異なる場所を歩いていたようだけれども、まわりを見わしても一帯の斜面はとても急峻であり、どこを越えても大きな違いはそれほどなさそうである。
かよこ子さんは思い出す。この峠道を越えてやってくる父親の兄が訪れるときには、必ず兄弟揃って出迎えたのだと。
「数馬のオジイが来るっていったら、どこへも遊びに行きません。お盆になると、わざわざ山を越えて挨拶に来てくれるんです。普通ならどこかへ行っちゃうのに、そのときだけは庭で待っているの。するとね、白くてでっかいリュックサックを背負ってね、父親と同じ顔のオジイが来るの。うちは兄妹が4人いるんです。兄がふたりに私と、弟と。でね、オジイに『来てみい』って言われて、4人に『並んで見ろぉ』っていって1,000円ずつくれるんです。当時の子供には、すごい大金ですよ。それに、お菓子もね。いろいろ、リュックサックに詰めてね」
当時の数馬地区はとても栄えており、昭和30年代はじめには電気が通じていたそうだ。しかしながら、その頃の藤倉地区はまだ貧しい集落である。峠を越えてやってきた叔父は、いつも新たな刺激を与えてくれる存在であったのだろう。あるときなどは、驚くことにブラウン管テレビを背負って峠道を越えてきたという。
「向こうは御大臣さまだから、10万円くらいしていたテレビを持っていてね。それで、倉掛にも電気が来たときに古いテレビだって言ってすぐにくれたんです。数馬から背負ってきたんですよ。あの峠道を歩いてね。当時は電気機器とか、なんでも背負ってきたんです(笑)」
数馬峠からは本来、このまま尾根から下っていく道を進んで数馬の集落へと向かう。しかし僕たちは、長田かよ子さんから聞いたとおり、正月の初詣のために家族で歩いたという三頭山まで足を伸ばすことにした。
浅間尾根から奥多摩周遊道路を渡って、尾根道から鞘口峠へと向かう。そして、まもなく三頭山に到着する頃、風が少し強くなってきた。さらには、頭上から真っ白な雪が散ってきた。そこで立ち止まると、空を見上げながら頭上で舞うボタン雪を見て童心に返った。
中央峰(標高約1,531m)、東峰(同1,528m)、西峰(同1,525m)というみっつの山頂があることから名づけられた三頭山の山頂に到着する頃には、さらに降雪は強くなっていた。東峰にある見晴台へと到着すると、板張りの上に積もった雪で足を滑らせないようにしながら東屋に逃げ込んだ。2〜3人が座ることができる小さな東屋であるけれど、こんな悪天候のときはありがたい存在である。
約30分、雪見を楽しんでいると雪はすっかりやんでしまった。先ほどまで空を厚く覆っていた雪雲の隙間からは、日の光が差し込んでくるのである。気を取り直して再出発をすると、三角点がある三頭山の西峰から南下して、笹尾根を進んでいく。すると立派な避難小屋があり、そこで羽織っていた雨具を脱ぐことにした。
笹尾根を南下して、西原峠の分岐点を左手に折れ、登山道を下っていくこと約1時間。山間の集落のまわりに作られた畑が見えてきた。畑のなかで仕事をしていた男性に、僕は「なにを栽培しているのですか?」と訪ねた。すると、ルッコラやケール、イタリアンパセリなど西欧野菜を収穫しているのだと意外な答えが返ってきた。その理由を問うと、イタリア料理店で働く長男のために育てている野菜なのだという。
立ち話をしながら、僕たちが西原峠から歩いてきたことを告げると「おいねジャガイモ」についての逸話を教えてくれた。
「おいねジャガイモって知ってます? 昔ね、ここらへんは山梨との交流が深くてね。向こうから数馬に嫁入りをしてきた人で、おイネさんって人がいたの。その人が檜原村に持ってきて育てはじめた芋だから、おいねジャガイモって呼ばれたらしいの」
ころころと丸く、小さなジャガイモは檜原村の隠れた名物である。軽く蒸かして、少し塩を振れば上等な酒の肴になる。素朴な味わいは、次から次へと手が出てしまうほど美味である。
男性と別れた僕たちは、畑が広がる小道を抜けて数馬の温泉街へと向かった。山の向こうの藤倉から数馬まで、ずいぶんと遠回りをした。寄り道をせず峠を越えれば2時間半程度で到着してしまうであろう。しかも、舗装路が整備された現在であっても、数馬から藤倉までは自動車で40〜50分を要する。だからこそ、ブラウン管テレビを担いで峠を越えることも厭わなかったのであろう。
藤倉から見れば、数馬は賑わいのある地区だ。かよ子さんが数馬へ、お嫁に行きたかったと憧れたのもうなずける。この地域が賑わう理由のひとつである数馬温泉に浸かって汗を流し、疲れを癒やしてから帰路へと向かおうではないか。土産は、おいねジャガイモである。これを道路沿いの土産物店で手に入れようではないか。
文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎松本茜 Photographs by Akane Matsumoto
取材日/2023年3月14日
(次回告知)
次回、第二十二話となる「The Classic Route Hiking」は2024年4月17日(水)更新予定です。作家の川端康成が綴った『伊豆の踊子』で知られる、伊豆半島の天城峠へと向かいます。
(アクセス方法ほか)
ACCESS & OUT/出発地点としたのはJR武蔵五日市線の終着駅、武蔵五日市駅から西東京バスで50分ほどで到着する藤倉のバス停である。そこから車道を1〜2分ほど引き返した上除毛橋を渡ると、すぐ右手に登山口を見つけることができる。帰路は、数馬からバスに乗って、武蔵五日市駅へと向かうといいだろう。
「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。