平野長蔵が守った尾瀬を越える道

平野長蔵が守った尾瀬を越える道

第二十三話

平野長蔵が守った尾瀬を越える道

 

所要時間:約8時間30分(1泊2日)

主要山域:尾瀬沼(群馬県・福島県)

難易度:★★☆

 

アクシーズクイン・エレメンツでは、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。第二十三話となる今回は、日本を代表する湿原が広がる尾瀬沼を抜けて、群馬県片品村から、福島県檜枝岐村へと抜ける会津沼田街道を歩く。

 

その道中には、故郷である檜枝岐村から大自然の真っ只中での生活を選び、生涯にわたって尾瀬を愛した平野長蔵が作った山小屋「長蔵小屋」がある。およそ130年前となる1890(明治23)年、この地での生活をはじめた長蔵は、当時としてはとても進歩的な考えを持つ人物として伝えられ、自然保護の観点から尾瀬に広がる環境を後生に残すことに翻弄する人生を送った。僕たちが歩いた会津沼田街道は、その足跡を追う旅となった。

 

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尾瀬沼へ向かうため僕たちが選んだ登山口は、群馬県側の大清水である。一般車両の進入を防ぐための車止めを抜けて、ほかの登山者たちが向かう林道から分岐点を右手へと進む。案内板には、「奥鬼怒林道」と掲げられており、そこからまもなくすると会津沼田街道の面影を残す旧道を見つけることができる。

 

本格的な山道がはじまる三平橋までは通常、大清水から1時間ほどの林道歩きである。その行程を正直、あまり魅力的だと感じることなく歩いてきた人も多いと思うのだけれど、この旧道を歩くと、その考えが一変するであろう。上州と会津を結ぶ交易の道として、馬の背に荷物を背負わせながら歩く馬方たちが行き交った時代を思い起こす。そんな時間を過ごすことができるのである。

 

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「コトコト」、「コトコト」

 

三平橋から、急登を続けること約30分。湧き水が、縁石を叩く音が聞こえてきた。ここは百年以上にわたって、会津沼田街道を辿って三平峠へと向かう旅人たちの休憩地となってきた場所であり、現在まで数多くの登山者たちの喉を潤す石清水が湧いている。かつての旅人にならって、僕たちも湧き水をすくって火照った体を冷やすのである。

 

2度目の休憩地とした三平峠を越えた頃、目指す尾瀬沼が木々の隙間から見えてきた。湖畔に作られた山小屋や休憩所がある広場には、そこから30分ほどで到着である。

 

尾瀬沼の畔にある広場は、週末ともなれば登山客でたいへんな賑わいをみせる。かつては平野家の人たちが野菜を育てるために耕した畑があった場所であったという。さらに昔は、群馬側と福島側から運んできた交易品を置いて、交換をする荷渡し場であった。平野家の人たちが作物の種を植えようと土を耕してみると、古銭が出てきた。そのため、ここに交易所があったことがわかったのだ。

 

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「こんにちは!」

 

三平下からは、尾瀬沼の畔に作られた木道を辿りながらの快適な山歩きとなる。その木道を歩いた先にある、味わいのある建物の木製扉を開ける。今宵の宿としたのは、尾瀬に魅せられ、手つかずの自然のなかで生活をはじめた平野長蔵が作った「長蔵小屋」である。

 

長蔵は、1870(明治3)年、福島県檜枝岐村で生まれた。19歳になると、村に古くから伝わる燧ヶ岳信仰を復活させようと燧ヶ岳を開山。のちに尾瀬沼の沼尻に小屋を建てて、尾瀬での生活を始めている。

 

長蔵は、「上州の国見をする」と檜枝岐から沼山峠を越え、尾瀬沼の東岸沿いの道を三平峠に抜けて群馬県側に出ている。(中略)この旅行で見た燧ヶ岳の印象が強く残り、十九歳、明治二十三年八月に一念発起して初めて登頂し登山道を開いた。(後藤允・著『尾瀬・山小屋三代の記』より。岩波新書・刊)

 

彼が最初に小屋を建てたのは沼尻である。現在の長蔵小屋は尾瀬沼の東岸に置かれているが、ここは長蔵が尾瀬での生活をはじめてから25年後となる1915(大正4)年に移設した場所である。以来、尾瀬でもっとも歴史のある山小屋として登山者や自然愛好家らを迎えている。

 

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現在の長蔵小屋は、長蔵の曾孫にあたる平野太郎が、4代目の主として山小屋を引き継いでいる。彼は、長蔵について「直接は知らないのです」と前置きをしながら、山小屋が建てられた当時について考察を交えて話してくれた。

 

「私の祖父は、言葉が多くない方で。長蔵についても、あまり話を聞いてないんですね。でも、厳しい曾祖父であった、それは違いないと思います。そのいっぽうでロマンのある人だったとも思うんです。なにしろ山の中で、ひとり生活を始めて、貧しいなかでも、いま我々が考えるのと同じように、尾瀬の自然に魅力を感じて生きていこう。そう思ったわけですから。燧ヶ岳信仰を広めたいという思いとともに、尾瀬の自然を愛して、手つかずの自然のなかで開拓をしながら暮らしたい。そんな思いが強かったんじゃないでしょうか」

 

当時、山小屋に立ち寄る馬方などに混じって、都会から登山をしようとやってきた知識人たちも訪れた。そうした人たちとの交流を通じて、長蔵は新しい時代の考え方を吸収するとともに、自然保護の意識を芽生えさせていく。さらに、尾瀬への思いは、その子供の平野長英、孫となる平野長靖へと引き継がれ、いまに受け継がれてきた。

 

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僕たちは山小屋に荷物を置いて、尾瀬沼のまわりへと散策に出かけることにした。草花が咲き誇る尾瀬沼の畔からは、燧ヶ岳の荒々しい山容を眺めることができる。燧ヶ岳には、一等三角点のある標高2356mの柴安嵓(しばやすぐら)、標高2346mの爼嵓(まないたぐら)のほか五つの山頂を見ることができ、爼嵓には長蔵が置いた石碑がある。

 

山頂かうために長蔵が用いたのは、桧枝岐村から会津沼田街道を通って尾瀬沼へ向かい、池尻から現在は「ナデッ窪」と呼ばれている道である。池尻の登山口付近にはかつて、長蔵の手による鳥居も建てられていたそうだ。

 

ちなみに、尾瀬沼から燧ヶ岳山頂へと向かうルートとして多くの登山者が使っている長英新道は、急登が続くナデッ窪の山道よりも、より安心して歩けるようにと長蔵小屋の2代目となる平野長英が開いたものである。

 

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山小屋に戻って、山小屋の前に置かれたベンチに座って夕涼みをしていると、太郎さん夫婦がやってきた。5人兄妹の子供たちと一緒に夕方の散歩へでかけてきたという家族の姿を見ていると、平野家が4世代にわたって尾瀬で過ごしてきた理由をうかがい知ることができる。彼らの笑顔、その話し声は、人里離れた場所で生活をする苦労を上まわる幸福感が溢れているのである。

 

夕食の時間である。僕たちが部屋の番号が掲げられたテーブルに腰掛けると、山小屋で働くスタッフと一緒になって平野兄妹が大忙しの厨房から料理を持ってきてくれた。できあがったばかりのポークソテーは、まさに絶品であった。

 

山小屋のガラス戸から屋外を眺めると、少し色づいた日の光が雲の隙間から見えていた。少し雨が降り始めたようで、コツコツと屋根を叩く音がしている。

 

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翌朝、客室で目を覚ますと、昨夜降りはじめた雨はやんでいるようだった。支度をすませ、小魚の佃煮と卵焼き、サヤインゲンの胡麻和え、白米と味噌汁と、質素だが、贅沢な気持ちに満たされる朝食をいただいた。

 

さて、居心地のよい山小屋を後にする時間である。僕たちは、まだ朝靄が残るなか、木道を伝って会津沼田街道の下山口となる七入へと向かうことにした。かつては馬を引いた馬方たちが、街道を通って福島県側から群馬県側へ、福島県側から群馬県側へと荷物を運んだ道である。その蹄跡は、昭和の時代まで見ることができたという。

 

途中、大江湿原にある平野家の墓に立ち寄ると、類い希な自然を残してくれた長蔵に感謝の念を伝えた。彼の横には、平野長英・靖子夫妻、平野長靖と、それぞれの墓が置かれている。僕が知るなかで、ここはもっとも美しい墓地である。

 

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沼山峠からは、驚くほど静かな山歩きとなる。ここでは、人里離れた山中で生活をはじめた長蔵たちが生きた時代と変わらない景色をみることができる。

 

道行沢沿いの山道を辿って徐々に標高を落としてゆくと、送電線をくぐり、まもなくすると山小屋が見えてくる。ここが七入である。現在、福島県側からの入山は、大きな駐車場がある御池、もしくはそこからバスで標高を上げた沼山峠からとなる。けれども、会津沼田街道の福島県側からの入山口として古くは、七入が使われていた。

 

旅の締めくくりは、1時間半ほどの舗装路沿い歩きとなる。終着点は、長蔵が生まれ育った檜枝岐村である。街道沿いに置かれた墓石には、「平野家」、「星家」、「橘家」と、みっつの名字が刻まれている。実に朗らかな気分になる墓地だ。沿道を歩いていると、村で生活をしてきた故人たちから快く出迎えられている、そんなあたたかな気持ちになるのである。

 

文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎松本茜 Photographs by Akane Matsumoto
取材日/2023年8月8日

 

(次回告知)
次回、第二十四話となる「The Classic Route Hiking」は2024年7月24日(水)更新予定です。甲斐国と駿河国を最短距離で結ぶ道として整備された中道往還を辿ります。現在は旧道として残されている山道を、途中の右左口峠を越ながら江戸時代の旅人たちに思いを馳せます。

 

 

 

(アクセス方法ほか)
ACCESS & OUT/今回の出発点とした群馬県側の大清水までは、東京新宿のバスターミナル「バスタ新宿」から関越交通の運行する大清水行きの高速バスで向かった。新宿から大清水までの所要時間は、途中の休憩を挟んで4時間半弱となる。福島側からの帰路は、桧枝岐村にある道の駅「尾瀬桧枝岐」前にあるバス停から会津鉄道の会津高原尾瀬口駅へ向かい、そこから特急列車「リバティ号」にて東京の浅草駅へと向かった。

 

「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。

 

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