馬の背でマグロを運んだ五十集道

馬の背でマグロを運んだ五十集道

第二十四話

馬の背でマグロを運んだ五十集道

 

所要時間:約8時間30分

主要山域:三方分山、釈迦ヶ岳(山梨県)

難易度:★★★

 

アクシーズクイン・エレメンツでは、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。その第二十四話となる今回は、山梨県の甲府から、静岡県の沼津へと通じた中道往還を歩く。

 

出発地点としたのは、富士山麓に広がる樹海にひっそりとたたずむ富士五湖のひとつ。精進湖畔に広がる居村集落である。ここから、中道往還における難所といわれたふたつの峠、阿難坂(女坂峠)、右左口峠を越えて甲府盆地へと向かった。

 

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午前4時。まだ日が昇るまえ。真っ暗闇に包まれた精進諏訪神社の境内で、僕たちは出発準備を整えた。これから見る景色への期待とともに、不確かな登山道、真夏の酷暑への不安を抱えながら精進湖畔に広がる居村集落を出発した。

 

今回僕たちが歩こうとやってきた中道往還とは、甲斐国(現在の山梨県)と駿河国吉原(静岡県の中部)を最短距離の20里(約78km)ほどで結ぶ旧道である。その名称は、甲斐と駿河を結ぶふたつの道、河口湖方面へと向かう「河内路」、富士川に沿った「若彦路」のあいだに作られた“真ん中”の道であることに由来する。

 

樹高約40m、幹回り12〜13mという見事な大杉「精進の大杉」が境内で迎える精進諏訪神社で旅の安全を祈願すると、阿難坂へと向かう石畳の道をヘッドライトで照らしながら峠道へと向かった。

 

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居村集落の最後の民家を過ぎると、石畳が敷かれた道からアスファルトの小道となり、精進川沿いの登山道になっていく。徐々に標高を上げてゆき、つづら折りの急登を登って砂防ダムを越えていく。渓流に掛けられた木橋を渡ると、無造作に重ねられた石積みが暗闇のなかでヘッドライトの光に照らされた。

 

江戸時代には、駿河湾で豊富に獲れたマグロをはじめとした生魚などの海産物、塩などを、この道を使って甲府にある魚問屋へと運んだ。そのため、この道は「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)とも呼ばれた。

 

四方向を山に囲まれ、海産物の漁場がない甲府市であるけれど、長年にわたってマグロ消費額が全国第2位の街として知られている。その背景には、江戸時代から中道往還をはじめとした旧道を伝って鮮魚の流通が盛んであったこと、甲府城の警備を担うため江戸幕府から派遣された役人たちが寿司を求めたことから寿司食文化が広まったからだといわれている。

 

甲府は四季を通じて、生魚を持ち込むことができる限界の地であった。これを当時、「魚尻点(うおじりてん)」と呼び、馬の背に乗せた生魚は夕方頃に駿河湾を出発。夜通し峠道を歩いて、翌朝には甲府の魚問屋に持ち運ばれた。

 

冷凍技術などが発達していない時代であるからして、富士山麓の比較的寒冷な土地を運んだとしても、魚が傷みやすい夏場に持ち込まれるのは塩漬けの魚がほとんどだったという。また、甲斐国の寿司店では魚を酢でしめたり、醤油漬けにするなどの工夫をしながら生の状態に近い魚を味わうなど独自の寿司文化も発展していった。

 

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居村集落から1時間ほどが経過すると、女坂峠へと到着する。本来の中道往還は峠を越して、そのまま北側へと向かっていたが、僕たちは三方分山(標高約1,422m)へと向かう尾根道を進むことにした。そこからは、釈迦ヶ岳(標高約1,271m)の山頂を踏み、右左口峠の入り口となる芦川沿いの下芦川集落へと向かう。

 

女坂峠は、正式には「阿難坂」と呼ばれているけれど、ここでは便宜上、峠道について「阿難坂」、峠について「女坂峠」と明記する。この峠が女坂峠と呼ばれるようになったのは、その昔に身重な女性が峠道を越える道中で出産をしたものの母子ともに亡くなったことに由来する。その母子は、ここに埋葬され、供養のために赤子を抱いた石地蔵が置かれた。この石地蔵が「女石」と名づけられ、ここを女坂峠と呼ぶようになったのだ。

 

なぜ、身重な女性が峠道を越えていたのか。それは、生魚を運搬していた馬方の多くが女性であったからである。女坂峠から峠道を下った国道沿いにあるふたつの集落、古関集落と梯集落では古くから燃料としての炭焼きが盛んに行われていたが、これを甲府へと運ぶのも、多くは女性の仕事であったという。

 

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三方分山からの尾根道を伝っていくと、2時間ほどで釈迦ヶ岳の山頂へと到着する。途中の斜面では、精進湖の周辺に広がる樹海の向こうに大きな富士山が木々の隙間から姿を見せる。“五十集(いさば)の道”となったよりも昔の中道往還は、修験者たちが甲府盆地から富士山への巡礼のために使った道であったとも考えられているそうだ。

 

釈迦ヶ岳までは快適な登山道が続いていたけれど、山頂から川沿いの下芦川集落までは幾ばくかの苦労を強いられる。踏み跡がほとんど消えてしまっている釈迦ヶ岳からの尾根道は、林道に合流する手前で防災用無線機の中継局がある作業道となる。林道から登山道への入り口が少しわかりにくいので補足すると、林道に出て少し東側へと歩いていくとピンク色のリボンの目印がある。

 

中道往還は、精進湖畔から女坂峠を越えて、古関集落と梯集落へと続く谷道を歩いたと聞く。しかしながら、谷側へ降りることは多量の降雨による土砂崩れや洪水の危険も考慮しなければならない。それに、車に乗って現在の国道を走れば、驚くほど深い谷間に道路が作られていることが分かる。

 

街道が整備される以前は恐らく、僕たちが歩いているのと同様に尾根筋を好んで歩いた人たちも多かったのではなかろうか。釈迦ヶ岳からの下山道を歩きながら、そう僕は想像するのであった。

 

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標高を落としていくにつれて、徐々に気温も上昇していった。汗がしたたりはじめるが、体を冷やしてくれていた微風は山の斜面に防がれている。釈迦ヶ岳からの不明瞭な尾根道を越えて、落ち葉を踏みながら歩くこと1時間30分ほどで到着したのは、芦川沿いに広がる下芦川集落である。

 

芦川に掛けられた橋を渡って、舗装路になった県道を渡るとコンクリートで覆われた法面沿いに東の方角へと向かった。中道往還の難所であった右左口峠へと向かう登山口は、橋から2〜3分ほど歩いた階段の上から続いていた。コンクリート壁のうえに3〜4体の地蔵が置かれているところである。

 

草木の生い茂る山道を登っていくと、旅人たちが行き交った時代に作られたであろう苔むした石積みが連なる。この峠道は、迦葉坂と呼ばれ、古くからの右左口峠を越える旅人たちに利用されてきた。

 

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右左口峠までは、なかなかの急勾配である。その道中では、「馬頭観世音像」や「千手観世音像」などと明記された石像をいくつも見ることができる。ここを通った荷馬は、30貫(約113kg)もの荷物を背負いながら歩いた。そのなかには足を踏み外すと斜面を転落し、動けなくなった馬もいた。そうした荷馬を供養するために建てたのが馬頭観世音像である。

 

また、炭俵を背負った女性たちが甲府へと炭売りに出かけたが、峠道の途中で力尽きて命を絶えたものもいた。ここにある石碑のなかには、そうした女性たちの供養と道中安全のために置かれたものである。

 

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まもなく右左口峠を越えようかとする頃、ふたたび霧がたち込めてきて、周囲に広がる雑木林を覆った。首に掛けていた手拭いで汗をぬぐうと、冷たい風が吹いてきて、ここからはじまる下り坂へと向かう意欲が復活する。

 

途中には、荷馬のための水飲み場のほか、古くから使われてきた石畳が残されている場所もある。峠の反対側にも、石畳であったろうと想像できるところがあるものの、ここの石畳ほどの保存状態ではなかった。山の斜面からの土砂で埋まっていたところを発見され、後年になって発掘された場所なのだという。土砂の下に埋まっていたことが功を奏して、より良い保存状態を保っていたのであろう。

 

石畳から、さらに15分ほど山道を下っていくと、大型トラックが走り抜ける国道356号線の甲府精進線に出る。僕たちが歩いてきた右左口峠をわずか2〜3分で越えることができる右左口トンネルが山の斜面に大きな口を開けていて、その横を自動車に気をつけながら国道を渡った。

 

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中道往還の旧道は、国道を渡った森のなかに続いており、僕たちはゴール地点とした右左口宿の集落へと歩を進めた。山の岩盤を斫ったような跡が残る山道は広く、かつて多くの人たちが峠を目指して歩いたのであろうことを想像する。

 

最後は、砂防ダムのうえを右手にまわると、右左口宿から続く小道を見つけることができる。その小道を抜けると、ぱぁっと視界が開けて舗装路となった。まもなくすると、間口が狭く、奥行きが長い町家作りの家々が並ぶ右左口宿へと到着する。沿道に立つ建物は、江戸時代の宿場街としての風情が残されており、ナマコ壁が美しい土蔵、道標や道祖神などを見ることができる。

 

右左口宿は、駿河国から持ち込まれた物資を、甲斐国に運ぶ馬方へと受け渡すための“荷渡し場”として栄えた。山間部に位置するため耕地は乏しいが、江戸幕府によって関所を自由に通行することが許され、住民たちは駿河国から甲斐国へと塩や海産物を運んで生計を立てたのである。

 

こうした特権は武田氏滅亡後、徳川家康公が中道往還を通って甲斐に入国したときに、右左口宿の住民から手厚いもてなしを受けたため与えられたのだという。そのような歴史を持つ宿場街を歩きながら、いま来た道を振り返る。すると、先ほど越えてきた右左口峠のある山並みが町家作りの民家の向こうに迫っているのであった。

 

 

文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎松本茜 Photographs by Akane Matsumoto

取材協力◎SUNDAY(山梨県甲府市)https://sundayweb.jp
取材日/2024年7月9日

 

(次回告知)
次回、第二十五話となる「The Classic Route Hiking」は2024年9月18日(水)更新予定です。三重県内で南北に連なる鈴鹿山脈を越える千種街道を歩き、戦国時代に発掘がはじまってから明治末期まで銀や銅などが盛んに掘られていた御池鉱山跡地を目指します。

 

 

 

(アクセス方法ほか)
ACCESS & OUT/今回の出発点とした富士五湖の精進湖までは、富士山駅前から発着の富士急バス「河口湖・最古・本栖湖・周遊バス」が運行している。ゴール地点の右左口バス停からは、富士急バスの南甲府駅行きを利用することが可能だ。いずれも便数が限られているため、事前に時刻表などを確認しておいて余裕のある行程を組みたい。

 

「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。

 

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