第二十六話 鈴鹿山脈に眠る御池鉱山跡
第二十六話
鈴鹿山脈に眠る御池鉱山跡
所要時間:約6時間30分
主要山域:根の平峠、杉峠(三重県、岐阜県)
難易度:★★☆
アクシーズクイン・エレメンツでは、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。その第二十六話では、最高峰の御池岳(標高約1,247m)を擁する鈴鹿山脈の山中に残された御池鉱山跡を目指す。三重県と滋賀県の県境に位置する御在所岳(標高約1,212m)、その裾野に作られた千種街道の入り口となる朝明渓谷へと向かうことにした。
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「ほぉ。御池鉱山へ向かって、甲津畑村まで歩くのですか? わたしは甲津畑村の出身なんですよ。甲津畑の集落は戦前、朝鮮半島から出稼ぎに来ていた人も住んでいてね。小学校では、クラスにひとりは朝鮮からの子供がいましたしね」
午前7時、鈴鹿山脈のなかでもっとも人気がある山のひとつ御在所岳。その玄関口となる「湯の山温泉」の駅前に停まっていたタクシーの運転士に、朝明渓谷へと向かいたいことを告げた。運転士はパタンと開いたトランクに荷物を積めると、ハンドルを握りながら「ここからは御在所岳へと向かう人がほとんどだけど、甲津畑まで歩く人もちらほらいますよ」と言いながら車を走らせはじめた。
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約15分後、湯の山温泉駅を出発したタクシーは、今回の登山口とした朝明渓谷の駐車場に到着した。そこからは舗装路を伝って、朝明川に掛かる見返橋を渡った。そこからまもなくすると、赤字で「根の平峠・ブナ清水への登山口」と書かれた看板を見つけることができる。
ここへやってきた理由は、人里離れた山中に約300人が住まいを構えていた鉱山跡があると聞いたからである。鈴鹿山脈には戦国時代から鉱山が開かれ、昭和30年代まで金や銀、銅などの採掘が行われていた。
心地よい杉林のなかに作られた道を歩きながら、空を見上げて深呼吸をした。早朝まで降り続いていた雨によって空気が湿り気を帯び、とてもすがすがしい気分にさせてくる。「はぁー」っと、もう一度息を吐いくと、強い風が吹いてきた。杉の枝葉についた雨粒が落ちて、パラパラと灌木の葉にあたって音を鳴らした。
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足元には、古い石畳がところどころに残されている。これは、近江国の商人たちが商いのため滋賀県側から、伊勢のある三重県側へと往き来した時代に作られたものであろう。この道は、もともとは千種街道と呼ばれ、周囲を山で囲まれた近江国から、伊勢国へと向かう際に使われた江戸時代からの交易路であったのである。
谷筋を流れる渓流沿いに歩きながら、少しずつ、少しずつ標高を上げていく。花崗岩の真っ白な砂で敷き詰められた河原に残された踏み跡は、右岸から左岸へ、左岸から右岸へと続いた。次第に斜度が強まってゆき、降雨後の滑りやすくなった岩の隙間に足を置いて慎重に標高を稼いでいった。
徐々に視界が開けてきて、尾根へと到着する。そこが根の平峠である。標高約803m。ここでは近江商人たちが故郷とした琵琶湖まで見渡すような景色を期待したものの、残念ながら樹木で覆われ視界は遮られているのであった。
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根の平峠から先は、実に快適な道が続いた。ここまでの道も同様であるけれど、アップダウンが少なくて無駄のない経路であるからして、ここを歩いた旅人たちもさぞ喜んだであろう。周囲に広がる雑木林を眺めながら、いにしえの近江商人たちの姿を想像した。正確な地図もない時代に、さまざまな経路を辿り、さまざまな旅人たちが最終的にもっとも効率的に歩くことができる道を探した。その結果が日本全国に残された街道なのである。
およそ標高800mあたりの山の斜面を横切っていく山道は、愛知川の源流域沿いに進んでいった。美しい沢の水が流れる上水晶谷を越えると、谷間の眼下深くを流れていた沢の水が目の前を流れるようになっていた。
コクイ沢と愛知川という2本の沢が出会い、沢の水のなかから少しだけ顔を出した岩と岩のあいだを飛び越えて対岸に渡る。もう一本の沢も同様に、ピョンピョンと体のバランスを取りながら飛び越えていく。
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2本の沢を渡ると、目の前には水のなかに滑り落ちてしまいそうな岩の壁が迫っていた。その見た目よりも、はるかに簡単に登ることができるけれど、山登りに馴れていないと躊躇するような場所である。
そこからは、右手へと枝分かれる山道を探しながら地形図を幾度となく確認しながら歩く。地図には掲載されていない道の先には、高昌鉱山という鉱山跡があると聞いていたからである。鈴鹿山脈には、およそ30もの鉱山が開かれており、最盛期は明治時代にあった。多くは大規模なものでなく、操業期間も2〜3年と短かかったため広く知られることもなかったようである。
もっとも活況を呈したのが、幕末からの採掘記録が残る御池鉱山であり、明治から大正の時代にかけては近隣の高昌鉱山と国位鉱山をあわせて約300人の鉱山労働者が従事していたという。しかしながら、山中からの搬出が困難であり、莫大な費用を掛けて設備を作ったところで採算がとれない。そうした事情が重なり、海外からの輸入品に押されるかたちで昭和30年代にすべてが廃山となってしまったのである。
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コクイ沢出合を越えたところにあるはずの高昌鉱山へと続く道を見つけることはできなかった。残念に思いながら、僕たちは気を取り直して御池鉱山跡へと歩を進めることとした。雨に濡れた落ち葉を踏みしめ、真っ白な花崗岩を覆った苔に手をおいて、その柔らかさを感じる。ときおり、黄色く色づいたカエデの葉っぱを手にとったり、クリの実を拾い上げたりしながらの山歩きである。
「あった! 石積みがある!」
僕は、登山道の右手側に苔むした石積み跡に目を奪われた。そこからさらに100mほど進んでいくと、山の斜面に向かって見事な石階段が続いていた。ところどころ崩れかけていたり、灌木が階段の真ん中で根を生やしてしまったりしているけれど、美しい石階段が山中に突然と出現するのである。
僕たちは高揚する気持ちを抑えながら一段、また一段と石階段を上がっていった。一番上の石段をあがると目の前がパァッと広がって、真っ平らな広場が広がった。敷地の脇には水路のように石が並べられており、建物の基礎だったような石が散在している。おそらく、ここは御池鉱山にあった小学校跡なのであろう。
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小学校跡から、奥へ、奥へと登山道を進んでいくと、神社の境内と思われる石階段を見つけた。そのうえには境内が広がり、社殿が置かれていたような石積みに幾本もの樹木が根を張っていた。一帯には数百人もの人々が居を構えていたということもあり、広い範囲にわたって住居跡の石積みが残されている。炭焼き窯跡もあり、下部に3つ、上部には2つの石積み窯が連なり、さらにそのうえにも炭焼き窯らしき跡が見つけられる。
ひととおりの観察を終えた僕たちは、小学校跡の石階段に腰掛けて大休止とした。取り出したおにぎりを頬張りながら、ここに暮らした家族たちの姿を想像した。人里離れた場所での厳しい生活であったであろう。だが、美しい景色に包まれた集落では、子供たちの笑顔で溢れていたに違いない。
名残惜しさを残しながら、僕たちは御池鉱山跡をあとにした。今回の終着点とした甲津畑の集落までは、ここから約2時間半の距離である。その道中には炭焼き窯の跡や石積みが点在しており、鈴鹿山脈のなかに色濃く残る人々の痕跡を巡る旅となる。
文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎松本茜 Photographs by Akane Matsumoto
取材協力◎モデラート(三重県四日市市)
https://moderateweb.com
取材日/2024年9月27日
(次回告知)
次回、第二十七話となる「The Classic Route Hiking」は12月11日(水)更新予定です。房総半島の鹿野山にて、山中での生活を続けていた本村集落へと向かいます。
(アクセス方法ほか)
ACCESS & OUT/今回の登山口とした朝明茶屋キャンプ場前の駐車場までは、近畿日本鉄道の湯の山駅からタクシーを利用した。なお、キャンプ場前の駐車場前には三重交通のバス停が残されていたけれど、現在は運行されていない。下山口とした甲津畑集落からはコミュニティバス「ちょこっとバス」が運行されており、「永源寺図書館」での乗り換えを経て近江鉄道の八日市駅へと向かうことができる。ただし、「永源寺図書館」では1時間30分前後の乗り換え時間が必要なため、途中の「山上新田口」で下車して、国道沿いに見えるタクシーの営業所から八日市駅に向かうといいだろう。
「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。
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