福井を南北に隔てた木の芽峠越え

第二十八話
福井を南北に隔てた木ノ芽峠越え
所要時間:約4時間
主要山域:木の芽峠(福井県)
難易度:★★☆
アクシーズクイン・エレメンツでは、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。第二十八話となる今回は、北陸地方は福井県へと向かった。
福井県を南北に隔てる木ノ芽山嶺。この稜線を境にして北側を嶺北、南側を嶺南と呼び、北側の越前国、南側の若狭国というふたつの文化を隔ててきた。尾根上には山中峠や栃峠といった峠道が作られ、そのなかで約1000年間にわたって利用され、もっとも多くの旅人たちが利用してきたのが木ノ芽峠である。
福井県を南北に隔て、越前国と若狭国を結ぶ峠道。そんな言葉の響きに好奇心を抱いて、僕たちは木ノ芽峠を目指すこととにしたのである
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午前7時、JR福井駅のホームに滑り込んできた電車が、峠越えの出発地とした今庄駅へと向かって南下していった。車窓からの景色は、稲穂が刈り取られた田んぼが広がっており、その向こうに見える小高かな山々で三方を囲われていた。遠くのほうに見えていた標高500〜600mほどの尾根が次第に近づいてきて、今庄駅に到着するころには目前まで迫ってきていた。
現代の福井といえば、全国生産の9割以上を占めるといわれている眼鏡枠の生産地として有名である。福井で眼鏡枠作りがはじまったのは1905(明治38)年。農産物を作ることができない雪深い冬のあいだの糧となる仕事を見つけたい。そんな思いを抱いた豪農の増永五右衛門が眼鏡枠作りに注目したことがきっかけであった。
小さくて軽い眼鏡枠であれば持ち運びがしやすいため、三方が山に囲まれた福井であっても、峠道を越えて他の街との交易もできる。恐らく、今回僕たちが歩く木ノ芽峠を越えて、京都や大阪まで運んでいたであろう。
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今庄駅に降り立つと、駅前に江戸時代の宿場街として栄えた今庄宿の町並みが広がっていた。西近江から敦賀を経て越前国の府中(現在の越前市)へと通じる旧北陸道において、もっとも繁盛した宿場である。1800年代の中頃まで55軒の旅籠屋があり、問屋や茶屋、酒屋などが軒を連ねて宿場街を賑わせていた。その街並みはいまも残されていて、僕たちはかつての情景を想像しながら北国街道を辿って街中を抜けていくのであった。
旧宿場街からは、しばしの舗装路歩きとなる。鹿蒜川沿いを進む道沿いには、遊水池や炭焼窯跡を見つけられる。なんてことのない道路脇の林のなかであるけれど、かつての地域に暮らした人たちの生活の痕跡が色濃く残されていることに驚かせられる。
旧北陸道を越前国から若狭国へと向かうには、木ノ芽山嶺にある標高400〜600mほどの峠を越えていった。そのなかで、もっとも古くに整備されたのが標高約389mの山中峠であった。以後、3本の峠道が整備されたが、山中峠は標高こそ低かったものの、海岸側に大きく迂回するため距離が長く、時間を要した。途中、水路を含むことも嫌われた。そのため、あとで整備された木ノ芽峠を多くの旅人たちが利用するようになった。
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実際に木ノ芽峠を歩いてみると、多くの旅人が利用した理由が分かる。標高628mと、山中峠に比べて標高が200m以上も高いのにも関わらず、距離的に短く、徐々に標高を上げていくため楽に往き来ができるのである。
「ここは昔の街道沿いでね。京都からは山中峠や木の芽峠といった峠道を通らないと北陸に入れないという地域でした。住んでいた人たちはみんな自給自足ですよ。昔は米を育てて、そこにある蔵で米を保管していたんです」
集落のなかにたくさんの蔵があることを不思議に思っていた僕は、南今庄の集落内を歩いているときに出会った男性に理由を尋ねることにした。
「敦賀方面からの貿易品などを保管するような蔵ではなかったんです。蔵の下には味噌部屋といってね、1間くらいの大きさの部屋があって、そこに自分たちで味噌を作って保管していたんです」
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彼は、木ノ芽峠が福井県を南北に分ける「北嶺」と「南嶺」の呼び方の由来になったことも教えてくれるのであった。
「木ノ芽峠は、奈良時代までは木嶺と呼んでいたそうなんです。それで、この木嶺を境に北側を北嶺と呼んで、南側を南嶺と呼んだんですよ。同じ県というのも不思議なくらい違うんですよね。言葉使いも違いますから。向こうは、隣接している京都とか滋賀とかに近い言葉。こっちは金沢のほうが近い。北陸というと、嶺北まで。こんなこと言っちゃ怒られるけど、そんなイメージがありますね」
そんな立ち話を終えると、僕たちはふたたび峠道へと向かって歩きはじめた。二ツ屋谷川に沿って南下する道へと分岐して徐々に標高を上げていく。この道の途中には、江戸時代に250人ほどが生活をしていた二ツ屋宿場跡があり、関所や旅籠屋、茶屋などの石積みが残されていた。
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さらに標高を上げていくと、春になって閉鎖されたスキー場のリフト乗り場が野原のなかにポツンと、忘れ去れたように建っていた。その横を抜けて、背丈ほどに伸びたススキのなかを歩いていく。
そこで「旧北陸道・木ノ芽峠 笠取峠」と、赤い矢印が記された案内板を見つけることができる。僕たちは、旧北陸道の方向を示す道標に従って、ススキをかきわけながら登山道の方角へと歩いていった。そこからまもなくすると到着するのが笠取峠である。
笠取峠にさしかかると、北西の方角から強風が吹いてきた。昔は、馬を引く馬方や人夫たちは頭にかぶった編み笠が飛ばされないように、手で押さえながら淡雪のなかを歩いていったという。そんな逸話が残る難所であったため、笠取峠と呼ばれるようになったのだ。
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笠取峠を越えて石階段を駆け上がると、周囲に連なる標高1000m前後の山々の展望が一気に広がった。すっかり葉の落ちた雑木林のなかに作られた山道は、弧描き、右へ、左へと進んで山の向こう側へと向かっていった。
まもなくすると、立派な茅葺きの屋根の茶屋跡が見えてきた。木ノ芽峠に到着したのである。およそ500年前に建てられたという茶屋は、ここを通過する大名たちのために建てられたものであり、越前国への玄関口としての番所の役割も果たしていた。
僕たちは、ちょっとした広場に置かれたベンチに腰掛けて休憩時間を過ごした。木ノ芽峠を境にして、ここから先は言葉も、文化的な背景も異なる若狭国となる。初冬の肌寒さを感じるなか、かつての旅人に思いを馳せるのであった
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木ノ芽峠からは、枯葉に覆われていたり、苔むした岩畳が敷かれた登山道が続く。新保宿へは、下山を開始してから1時間30分ほどで到着する。坂道の途中に数十軒の民家が建つ小さな集落であるけれど、峠道を越えてきた人たちにとって重要な宿場街であった。
軒先に大根が吊された民家が連ねるなかを歩いていくと、ゴール地点とした新保のバス停があった。木ノ芽峠には、誰もが知るような殿様や侍たちも越えた記録がさまざま残る。しかしながら1887(明治20)年、東浦道が整備されて道路が開通すると、誰も利用しなくなった木ノ芽峠はあっというまに廃れてしまったという。
いまは僕たちのような登山者たちが歩くだけになってしまったのが残念である。同時に、かつての情景を想像しながら、峠道を越えて越前国から若狭国へと旅することができるのは登山者の特権であろう。
文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎中田寛也 Photographs by Hiroya Nakata
取材日/2024年12月13日
(次回告知)
次回、第二十九話となる「The Classic Route Hiking」は3月12日(水)更新予定です。静岡県の伊豆半島に残された生活の道を探しにいきます。
(アクセス方法ほか)
ACCESS & OUT/出発地点としたのは福井駅から約30分のハピラインふくい線の今庄駅である。終点とした新保からは敦賀市のコミュティバスが運行しているものの峠越をしてからの利用は難しい。そのほかの公共交通機関はないため、敦賀駅までタクシーなどを利用するといいだろう。
「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。
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