木地師の里で山歩き

木地師の里で山歩き

第三十四話

木地師の里で山歩き

 

所要時間:約5時間

主要山域:旭山(滋賀県)

難易度:★★☆

 

アクシーズクイン・エレメンツでは、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。

 

第三十四話となる今回は、漆器などを作るための原料となる木を山から切り出して、お椀などの木地(木の元型)へと加工する職人、木地師たちの故郷を尋ねる。木地師発祥の地と呼ばれる岐阜県東近江市蛭谷町は、小椋(おぐら)谷と呼ばれる深い谷に覆われており、彼らが仕事場とした里山を旅しようと急峻な尾根道を伝っていった。

 

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木曽川が伊勢湾へと注ぐ三重県桑名市から、国道421号線を西へと走って約1時間。鈴鹿山脈を貫く石榑トンネルを抜けてまもなくすると「奥永源寺・渓流の里」という道の駅がある。そこから国道を近江八幡市側へと500mほど坂道を下っていって、神崎川に掛かる鉄橋を渡って県道を奥へ、奥へと進んでいく。すると、地元の人から小椋谷と呼ばれている谷間にひっそりとたたずむ蛭谷という集落に辿り着く。

 

山間に10数件ほどの民家が並ぶ集落の入り口に「ここは蛭谷町です」と書かれた木製看板がある。その下には「木地師資料館」と刻まれており、案内板に従って神社の境内へと石階段を登っていった。境内では、軍手をはめて鍬や熊手を手にした5〜6人の人たちが雑草取りをしている。左手にある民家のような建物の前に立つと、壁に以下のような張り紙があった。

 

「当会館は、完全予約制になっております。
予約は4日前までにお願いします。」

 

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「えぇー、なんと」
「せっかく、ここまで来たのに無駄足だったか」

 

資料館の壁に掲げられた張り紙を見ながら落胆していると、掃除をしていたひとりの男性が声をかけてくれる。木地師の歴史に興味を抱いてやってきたことを伝えると、彼は「鍵を持っているので、なかを案内しましょう」と提案してくれるのであった。

 

「木地師の仕事というのは、山のなかに入って木を切っていくんです。その木を山のなかまで背負って運んできたロクロを使って、ちょうどいい大きさに加工していく人たちなんです」

 

引き戸の鍵を開け、室内を案内してくれた北野清治さんは、自身も現役の木地師であると話す。約25年前、生まれ故郷である滋賀県を離れた彼は、ここでの生活をはじめ「筒井ろくろ」という工房を開いている。

 

「この谷を、小椋谷って呼ぶんですけど、この集落の人たちの名字は、ほとんどが小椋です。ここから少し奥にいくと君ヶ畑という集落があって、そこも木地師の里なんですけれど、やっぱり小椋さんという人がおられます。全国の木地師も、小椋さんですよ。でもいまでは、この集落で木地師と呼ばれるのは、私と息子のふたりになってしまいました」

 

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木地師の歴史は、約1200年前の平安時代にはじまった。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王が都を追われて、山深い小椋谷で身を隠すようにして過ごし、木の実の抜け殻を見て木の椀を作ることを思い立つ。惟喬親王は、法華経の巻物の紐から発想してロクロを発明。その技術を村人たちに伝えたことで、木で器などを作る木地師が誕生したと伝えられている。

 

資料館には、木地師に関する資料に混ざって、片手で持ち上げられるほどの大きさのロクロが置かれている。説明文には、「妻が綱を引っ張ってロクロを回して、夫が鉋を使って木地へと仕上げていった」とあった。

 

より小型の“足踏みロクロ”は、ミシンのような仕組みになっていて、足で踏み木を操作すると縄の動きで軸が回転する。手挽きロクロのように夫婦で操作する必要がないため“一人挽きロクロ”と呼ばれていたそうだ。

 

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展示品のなかには通行手形のような印鑑がずらりと並べられている。そのようすを眺めていると、北野さんが説明をしてくれる。

 

「当時の木地師は、山に良材がなくなると、家族を連れて別の山に移動していく、いわゆるノマドのような生活をしていたんです。それが原因で差別を受けることもありました。でも、このあたりの山の8合目以上の木であれば勝手に切ってもいいですよという許可証を与えられたり、木地師の身分を保証されていたんです。街道には関所があったけれども、山には関所がなくて、しかも木地師たちは自由に国境を越えられる特権も与えられていた。それで、木地師たちは安心して移動することができたんです」

 

そう教えてくれると、彼は「そうして全国に広がった木地師の発祥地が、この蛭谷なんです」といって少し顔をほころばせた。

 

木地師たちが働いた森を見に行こう。そう思い立ち、僕たちは蛭谷から2〜3km国道側へと戻った政所に向かった。持ってきた地図を確かめながら集落の出口に掛かる橋を渡ると、茶畑から尾根の方向へと登っていく登山道を見つけるのであった。

 

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パチパチと枝打ちされた杉の木の枝を踏みしめながら、徐々に標高を上げていく。登山道は不明瞭ではあるけれど、ところどころに吊り下げられたピンクテープを頼りに尾根を進めば迷うことはない。後ろを振り返ると、先ほど出発した政所の集落を木立の隙間から鳥瞰する。かつて屋根裏で蚕などを飼育していただろう民家が、御池川沿いのわずかな平地に広がっていた。

 

急登を続けること、およそ1時間30分。小椋谷を囲む山の稜線へと到着した。ここから、ようやく緩やかな山道となり、ところどころで幹まわり2mもあるようなモミの木をいくつも見ることができる。その太い幹に手を当てながら、空を見上げる。厚い雲に覆われていて、いまにも雨が降り出してきそうである。僕たちは少し急ぎ足になって、東山から旭山、ヒキノへと標高700〜800mほどの稜線を伝っていった。

 

快適な尾根道を進んでいくと、目の前が急にパアァっと明るくなってきた。すると、どこからかジェット戦闘機のような大きな風切り音が聞こえてくる。何だろう? そう思いながら進んでいくと、丸裸になった山の尾根に高圧電線の鉄塔が立っていた。大きな風切り音は、この電線に風があたる音であった。

 

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高圧電線に沿って尾根道を進んでいくと次第に下り坂となり、ノタノ坂と呼ばれている登山道が交差する地点へと到着する。そこからは君ヶ畑の集落へと続く山道となり、まもなくすると御池川との合流点である。

 

僕たちは、小さな砂利敷きの河原を見つけて、川岸へと降りていった。そこで登山靴と靴下を放り投げて、冷たい川のなかに足を浸した。半日かけて歩いてきた稜線を見上げながら、北野さんが言っていた言葉を思い出すのである。

 

「このあたりの土壌は、状態があんまりよくないんですよ。だからいい木が育つんです。どんな木でもそうなんです。標高が高いところほど、環境が厳しいから木が良くなる。それに、ここの山を見てるとね、大きなね、ブナとか、トチとか、ケヤキは生えてませんもん。ということは昔の木地師たちが切ったんやね。もう残ってないです」

 

今日僕たちが山中で見た大木といえば、モミの木のみ。恐らく木地師たちから見向きもされなかった木々であったのであろう。山中では、いくつもの切り株を見つけたけれど、この里山を歩いた木地師たちによって切り倒されて、どこかの街で漆器などとして大切に使われているのかもしれない。僕は、御池川のなかに転がった岩のうえに腰掛けながら、そんな木地師たちの姿に思いを馳せながら鈴鹿の里山歩きの旅を終えるのであった。

 

 

文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎宇佐美博之 Photographs by Hiroyuki Usami
取材日/2025年7月16日

 

(次回告知)
次回の「The Classic Route Hiking」は12月11日(水)更新予定です。第三十五回では、1695(元禄8)年に会津藩の廻米の輸送用街道として整備された会津中街道の難所として知られた大峠を超えて、山中に沸く三斗温泉へと向かいます。

 

 

 

 

(アクセス方法ほか)
ACCESS & OUT/
近江鉄道の八日市駅から近江バス「永源寺車庫」行に乗って終点で下車したあとで、君ヶ畑行に乗り換えて「政所」バス停にて下車すれば登山口まで3~4分で到着する。なお、木地師資料館までは、君ヶ畑行のバスに乗って「蛭谷」にて下車する。ゴール地点の君ヶ畑から、同様に近江バスにて八日市駅などへ戻るとよい。

 

「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。

 

 

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