男衆が房州石を切り出して作った道

男衆が房州石を切り出して作った道

第三十六話

男衆が房州石を切り出して作った道

 

所要時間:約4時間
主要山域:鋸山(千葉県)
難易度:★☆☆

 

アクシーズクイン・エレメンツでは、山間の集落をつなぐために使われていた生活の道を“クラシックルート”と呼び、古くも、新しい歩き旅を提案する。

 

第三十六話では、建築資材などとして使われた「房州石」を切り出した山として知られる房総半島南部に位置する鋸山へと向かう。山全体が堆積岩でできており、江戸時代から切り出しがはじまった一種独特な景色を眺めながら、その歴史を追うことにする。そこには男たちが岩盤を切り、女たちが石材を運んだ道があった。

 

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出発地点としたJR内房線の保田駅を出発すると、僕たちは民家が建ちならぶ舗装路をゆっくりと、ゆっくりと歩いていった。線路の向こう側に鋸山から続く稜線が伸びており、真っ白な鋸山ロープウェーの山頂駅を森のなかに見つけた。

 

いつのまにか舗装路が砂利道となり、しばらくすると裏鋸と呼ばれている登山口へと到着する。ここから本格的な登山となる。

 

登山口にある案内板には、いま歩いてきた林道が1997(平成9)年に完成したことが刻まれている。この道が開通するまでは、地域へと続く道は国道しかなかった。そのため、災害時に陸の孤島となることが心配され、東京湾に面する富津市側などから緊急物資などを運搬するためであったり、林業の発展を目論んで作られた道であるという。

 

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僕たちは登山口からの尾根道を伝って、心地よい冬の陽光を浴びながら鋸山の山頂へと向かった。岩盤を斫って作った階段がところどころにあり、石切場へと向かう期待感が高まっていく。

 

小休止を挟みながら、歩くこと約1時間。標高329.5mの鋸山の山頂へと到着する。山頂には、「房州低名山 鋸山 329.5m」と道標が立っていた。木々の枝の向こうに東京湾が広がっており、青く輝く海面には大小の船舶が残した航跡が白く伸びている。

 

ガサゴソという物音に驚いてうしろを振り返る。小さなシカ科の動物キョンが草を食んでいた。国内では房総半島と伊豆大島にのみ生息するという。小さめの中型犬ほどの大きさである。斜面の下のほうには家族であろう、ほかにも2〜3匹のキョンがこちらを注意深く観察していた。

 

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鋸山の山頂での休憩を終えて、ふたたび歩きはじめると鞍部に広がった小さな平地に人の手で積み上げられた石組みを見つけた。木炭を作るための炭焼き窯跡である。こうした炭焼き窯跡は、鋸山周辺に数多く残されているという。

 

房総半島南部は平地が少なく、作物を作るための農地も限られた。そのため貴重な現金収入源として炭焼きをして、江戸の町まで木炭を運んでいたのである。

 

かつて木炭は、家のなかをあたためたり、調理に使う火力として必要不可欠の燃料であった。鋸山一帯の森のなかにマテバシイが多いのも、そのほとんどが炭作りのために植えられたものである。成長が早く、固い木種であるから炭を作るのに適していたためである。

 

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尾根道をさらに進んでいくと突然、垂直に切り落ちた岩壁が目前にあらわれる。そこからすぐのところには、足元から10数mもの落差を切り落とされた「吹抜洞窟」がある。山道をさらに進んでいくと、奥深くへと切り出した岩盤に観音様が彫られた「観音洞窟」、最大で95mもの高さがある「ラピュタの壁」からは東京湾や富士山を一望する。まるで太古の昔の神殿のような、房州石の切り出し跡が次々と続く。

 

採石でできた窪みには水が溜まっており、池のようになった水たまりで男の子たちが泳いでいたこともあった。山麓で出会った、女性はそう話をしてくれた。

 

「男の子たちが、よく泳いでいたのよ。でもね、水が汚くってね。私は、ぜったいにあそこで泳ぐのは嫌だったよ」

 

恐らく、夏の暑さをしのぐために石切職人たちも、ここで水浴びをしたのではなかろうか。加工がしやすく耐火性がある房州石は、おもに建築資材として利用されてきた。切り出された石材は、山麓にある浜金谷港から東京湾を渡り、横浜開港にともなう護岸工事、土木工事用の石材として利用されたほか、横浜港の高島桟橋、さらには靖国神社や早稲田大学の大隅講堂の石塀などに使われた。明治時代の最盛期には、金谷の町の人口のおよそ8割もの人々が石材産業に従事しており、一本80キロもある房州石を年間56万本も切り出していたという。

 

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登山道は、石材や石くずを運搬するために作られた「切通し跡」といった運搬路を進む。

 

「石切り場はね、こわいイメージがありますね」

 

そう話すのは、鈴木裕士さんである。昭和60年まで採石を続けた最後の石元締めである鈴木四郎右衞門を父にもち、鈴木家16代目となる彼は、父親に連れられて岩舞台と呼ばれる石切り場まで遊びに行った子供時代を思い起こす。

 

「本当に小さい頃、幼稚園のころとかですね。おやつを持っていって、石切り場で遊んでいたんです。当時は、いまある手すりも、樹木も生えていなくて。絶壁に石を彫って作っただけの階段があって、そこを登っていったんです。けっこうスリリングというか。職人さんで滑って落ちて怪我をしたような人もいましたから。いまは木が茂って雰囲気も比較的やわらかくなっていますけどね」

 

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鋸山からの下山道は、「車力道跡」を伝った。車力道とは、石材を山から降ろすために使われた痕跡が石畳に残された道である。最盛期に30ほどあった石の元締めは、それぞれの石切り場を持ち、車力道もそれぞれ異なる道を作って利用した。

 

一本80kgの房州石3本を「ねこ車」とよばれる荷車に乗せて、後端を引きずって速度をゆるめながら斜面を下るのは女性たちの仕事であった。一日3往復して山麓や金谷港で石材を降ろしたあとは荷車を背負いながら坂道を登り返してきたそうだ。

 

ねこ車の車輪跡が残る石畳がはじまる手前には、石材の集積所がある。ここまでは丸太で作った滑り台、もしくは近代になるとワイヤーケーブルを張って石材を降ろした。浜金谷駅へと下山する山道に残された「樋道跡」は、石の斜面を利用して房州石を滑り落とした道である。

 

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山腹にある石材の集積所には、苔に覆われた10数本の房州石が残されている。ここまで歩いてきた山中にも、ところどころで切り出されたままの房州石が無造作に重ねられて残されている。このことを不思議に思っていた僕は、鈴木さんに素朴な疑問を投げかけた。すると、「出荷を待たずに事業が終わってしまったんでしょうね」との答えが返ってきた。

 

「最後までぜんぶ運んで終わればよかったんだけど。まぁ、そうしなかったんでしょうね。もったいないから、ぜんぶ売ってからって思うんですけど」

 

そういって鈴木さんは、当時の状況について考察を含めながら話してくれる。

 

浜金谷駅へと向かう途中には、民家の門柱や灯篭、石塀や建物の土台として使われている房州石を見つけることができる。街中を歩きながら、僕たちは1985(昭和60)年の閉山後は、壮大な景色を眺めるために訪れる登山者に親しまれるようになった鋸山をあとにするのである。

 

 

文◎村石太郎 Text by Taro Muraishi
撮影◎宇佐美博之 Photographs by Hiroyuki Usami
取材日/2024年1月8日

 

(次回告知)
次回の「The Classic Route Hiking」は2026年3月12日(水)更新予定です。第三十七回では、伊豆半島の名産物として有名な「山葵」を運んだ道を辿ります。

 

 

(アクセス方法ほか)
ACCESS & OUT/今回は、JR内房線の保田駅を出発して、裏鋸と呼ばれる登山口へと向かった。帰路は、鋸山から車力道沿いに下って内房線の浜金谷駅へと歩いた。下山後は、周辺の食堂などで肉厚の「アジフライ」などを堪能することをすすめたい。

 

「The Classic Route Hiking」では、独自に各ルートの難易度を表示しています。もっとも難易度が高い★★★ルート(3星)は、所要時間が8時間以上のロングルートとなります。もっとも難易度が低いのは★☆☆ルート(1星)となり、所要時間は3〜4時間、より高低差が少なめの行程です。

 

 

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